マニキュア


久々に陸で甘い一夜を過ごせるはずだったのに。
薄暗い店内に、細く揺れる照明。隣にはブルネットの美女。紅い爪に包まれたグラスにはブルームーンが残りあと僅か。
スリットから覗く白い脚をサンジの膝へと擦り付ける様が、酷く魅惑的に誘いをかける。
店を出てシーツの中で戯れるにも、スマートにもう1杯勧めるにも。絶好のタイミングだ。
なにより、その辺の駆け引きもサンジにとって楽しみの一つなのだが。
二つ空けた席から聞こえた名に、耳が勝手に反応してしまった。
『ロロノア・ゾロ』
悪人面をしたむさ苦しい男達から『ロロノア・ゾロ』の名が友好的に語られる訳もなく、
その内容にサンジはこっそり苦笑いを零す。
が、男達の話題が今夜の計画に移ったと同時に、サンジの眼光は女が震えるほど鋭さを増していた。
それまで甘えるように肩に凭れていた女の顎に軽く手をやり、さり気なく遠ざけて。
スっと音もなく立ち上がると、サンジは男の背後へと回った。
「ロロノア・ゾロを、どうするって?」
口角を吊り上げた挑発的な笑みで。だが、その声は低く殺気を放つ。
腕に自身があるのだろう、男はサンジの視線を真っ向から受ける為に振り向いた、はずだった。
けれど実際には、バキっと嫌な音とともに折れた椅子のせいで、床に顔面を強打していた。
カエルのような格好になった男に、サンジは冷ややかな眼差しを向ける。
男は5、6秒そのまま突っ伏していたが。烈火の如くサンジを睨み付けた次の瞬間、店の壁へと蹴り飛ばされ蹲った。
ピクリとも動かぬ男に、まるで興味なさげに。
トントンと血に濡れた靴の爪先で床を叩くサンジに向かい、残りの男達が武器を手に飛び掛かる。
その連中も同じように、瞬きする間もなく壁に蹴りつけて。何事もなかったかのようにサンジは女に手を差し伸べた。
虚しくも、そこに女の手が重ねられる事はなかったけれど。





停泊中の船はいつもの喧騒が嘘のように、シンと静まり返っていた。
いざとなれば獣じみた鋭敏さで危険を察知するであろう剣士は、航海中あまり役に立たないが、船番には最適な人物だ。
慣れた気配には驚くほど無頓着なのだけれど。
一人で旅をしていた頃はどうだったのだろうか、と思いながら。サンジは大口を開けて甲板に寝転がるゾロを見下ろした。
ハッキリ言って、色気のかけらも感じられない寝顔だ。
それでも。今よりも幼く、まだ駆け出しの剣士だった当時は、先ほどの下衆な野郎どもの餌食になる危険性を充分に
孕んでいたに違いない。
それは情事の折に垣間見る表情を知っている、自分の過ぎる感情のせいなのか、と。サンジは複雑な感情に眉間の皺を深くした。
過去にあの連中と何があったのか。余程ナマイキな態度で叩きのめしたのだろうと、推測するのは容易で。
連中の仕返し計画はサンジが制裁を加えなくても失敗に終わっていたとは思うが、少なからず的を得ていた。
この自分が慣らした身体なのだから。
万が一そういう事態に陥ったら、こいつは抵抗出来るだろうか。
好きだとか、愛してるとか。そんな言葉を告げた事などないが、もし自分以外の人間に抱かれるような事があったら。
相手を殺すのを厭わない程度には、この男を想っている。
なんだかそれは、愛だとか恋だとか、そんなものより随分と性質の悪い感情だ、と。サンジは諦めたように煙草に火を点けた。
「・・・なんだ、帰って来たのか?」
紫煙の香りが鼻をついたのだろうか。まだ覚醒しきっていない様子のゾロがサンジを見上げてくる。
「あぁ、おまえが寂しがってるんじゃねぇかと思ってな。」
寝そべったままのゾロの横へと座り、サンジは指で煙草を挟みながら返した。
「ふん、別に寂しくねぇけど?」
「へぇ、そうかい。」
互いに軽口を叩き、どちらともなく唇を触れ合わせる。
甘い一夜を過ごす予定が、結局今日もいつもと同じ夜になりそうだ。
「ま、さっきの礼はしてもらおうか。」
ゾロにとっては覚えのない事を小さく呟きながら、サンジは煙草を甲板へと押し付けた。
「何か言ったか?」
「いや、何でもねぇ。それより、イイ声で啼けよ?」
「誰が・・・んっ・・・!」
「そうそう、その調子。」
赤く染まった爪よりも。無骨な指が背中に残す爪痕の方が、自分の欲望を満たすのだという事を。
この鈍い剣士は、きっと気づきもしないだろう。
その内、嫌というほど分からせてやるつもりだけれど。とりあえず今日のところは、せいぜいイイ声で啼いてもらおう、と。
サンジはしっとりと馴染んだ肌に、鮮やかな紅を散らした。