佐賀の生んだ七賢人
日本近代化の先駆け−幕末・維新期の佐賀

歴史を動かした佐賀の偉人たち七人を紹介

鍋島直正公大隈重信江藤新平副島種臣佐野常民島義勇大木喬任

佐賀の七賢人石碑
佐賀七賢人の石碑(佐嘉神社入り口)
             鍋島直正公

大隈重信      江藤新平      副島種臣

佐野常民      島 義勇       大木喬任

鍋島直正公(1814年〜1871年)
肥前佐賀第十代藩主、文化十一年江戸藩邸に生まれ、幼名貞丸、、のち斎正、直正という、
号は閑叟、天保元年家督相続、藩財政の改革、長崎警備に力をつくし科学をとりいれ、、
鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくった。公武合体派であったが、幕末の政局では自重し、
明治政府内では軍防事務局時間・北海道開拓使長官をつとめた。
明治四年没。正二位をおくられ、のち従一位となる。


大隈重信(1838年〜1922年)
天保九年、佐賀藩士、大熊信保(鉄砲組頭)の子として生まれ、弘道館に学び義祭同盟に参加した。
長崎で英語を学び、明治政府の徴士となって外交・財政に活躍、のち改進党を組織し、藩閥政府と抗争した。
また、早稲田大学の前身、東京専門学校を創立、のち、外務大臣、農商務大臣、総理大臣などを歴任、
政治、文化に功績があった。大正十一年没、年八十五、従一位をおくられた。

江藤新平(1834年〜1874年)
天保五年生まれ、名は鳳雄、号は南白、弘道館に学び、義祭同盟に参加。
維新時、大木と共に東京遷都を建白、また明治政府内で、立法。
側度において偉大な功績があり、とくに司法卿として司法制度の基礎を作った。
明治六年参議となる。征韓論争で破れ、佐賀県士族におされて憂国党と組み佐賀の役で戦ったが敗北、
逃れて四国で捕らえられ明治七年非道にも処刑された。年四十一。

副島種臣(1828年〜1905年)
文政十一年、佐賀藩士枝吉忠左右衛門(南濠)の二男として生まれ、副島家の養子となる。
幼名龍種、号は斎海または一々学人、父及び兄、枝吉神陽の感化をうけ尊王論のリーダーとなる。
弘道館の国学教授をつとめ長崎で英学を学び、開国論に転じた。
惨議・外務卿として封支那外交の第一人者、
「マリアルーズ号事件」を解決し、助けを求めた中国人を解放したことで「正義人道の人」と国際的に支持された。
明治天皇の学問相手(侍講)や内務大臣などを歴任しました。
近代書家、さらに漢詩人としても有名です。明治三十八年没。年七十八

佐野常民(1822年〜1902年)
文政五年佐賀藩士下村充賢の五男として生まれ、十一歳で藩医佐野常徴の養子となる。弘道館で学び、
医学を緒方洪庵のもとでで研修、のち藩士に物理・化学を教えた。
幕末国産最初の蒸気機関車模型製作や佐賀藩発のアームストロング砲の試作に尽力した。
慶応三年パリ大博覧会に藩名をうけて渡仏、帰国後、海軍創設につくし、
大蔵卿・元老院議長,商務大臣などを歴任した。
明治10年西南戦争のとき、博愛者(日本赤十字社)を創設して社長となる。

島 義勇(1822年〜1874年)
文政五年生まれ。通弥団右衛門、字は国華栄斎と号した。枝吉神陽に学び、藤田東湖と交友があった。
安政年間から蝦夷・樺太を順巡見、
明治三年開拓使首席半官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。
のち、侍従・秋田県令などをつとめ、征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて領袖となり、
征韓党とともに、佐賀の役で戦った。
明治七年悲運にも処刑された。年五十三。

大木喬任(1832年〜1899年)
天保三年佐賀藩士大木知高の長子として生まれ、通弥幡六、のち民平を改めた。
弘道館に学び義祭同盟に参加、明治新政以後、東京府知事、民部卿・文部卿・司法卿を歴任、
三回にわたる文部大臣として学制・学校会教育勅語論など教育体制の整備に尽力した。
元老院・枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。
常に開明的な立場と圧迫をうけながらも始終儒教主義をおしとおした。
明治三十二年没、年六十八。


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