祈祷会  
ウエストミンスター小教理問答講解64

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から私をきよめてください。」(詩篇51:1-2)

(1)罪の赦しを求める祈り
今日は主の祈りの第五の祈願を取り上げます。第105問を読みましょう。「問:第五のの祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。答:(『我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ』という)第五の祈願で私たちが祈る事は、神が、キリストのゆえに、私たちのあらゆる罪を一方的にゆるしてくださるように、ということです。私たちは神の恵みによって他人を心からゆるせる者とされているので、なおさらこれを求めるように奨励されているのです」。
 主の祈りの第五の祈願においてしばしば問題となるのは、前半の「私たちの負い目をお赦しください」と後半の「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」とがどのように関係しているのかという点です。読み方によっては、私も隣人の負い目を赦したから私の負い目も赦してくださいと、私が赦していただくためにはまず私が赦さなければならないと、これを赦しの条件のようにしてしまったり、あるい主に罪を赦していただくことに先んじて、私が他の人を赦すことができるかのような錯覚に陥ってしまうことがあります。しかしはっきりとさせておかなければならないことは、私たちが隣人の罪を赦すことができるから私も主によって赦されるのではなく、私が隣人の罪を赦すことができなければ私も主によって赦されることはないということでもないということです。そうではなく、私が主によって罪赦され、負債を免除していただいたという赦しの体験、恵みの経験が、私を隣人を赦す愛へと突き動かして行くのです。それで小教理問答はまず第五の祈願の趣旨を「神が、キリストのゆえに、私たちのあらゆる罪を一方的にゆるしてくださるように、ということです」と説明し、これを支える引証聖句としてあの有名なダビデの悔い改めと赦しの詩篇である詩篇51篇を掲げています。私が罪赦されたという赦しの経験を十分に味わってはじめて、私たちは隣人を赦すということへと進むことができるのです。

(2)キリストのゆえに、神の恵みによって
さらに続いて小教理問答は赦された私たちが隣人を赦すことについて、「私たちは神の恵みによって他人を心からゆるせる者とされているので、なおさらこれを求めるように奨励されているのです」。ここで覚えたいのは、小教理問答が私たち自身の赦しについては「神がキリストのゆえに」と言い、私たちが隣人を赦すことについては「神の恵みによって」と言っていることです。つまり私たちが赦されるのも、私たちが赦すのも、そのすべてが神の恵みの御業であり、キリストの十字架の赦しのゆえであるということです。ここから離れて、私たちが己れの力で自分の罪の償いをすることもできないし、また私たちが隣人を赦すこともできません。主の祈りの第五の祈願が赦しを祈るのは、まさに私たちが赦しの恵みを神からキリストを通して受けていることを覚え、その恵の中においてキリストのゆえに他者を赦す者とされていくことを祈り求めるためなのです。

(3)赦された者として赦し合う
 小教理問答が私たちの隣人に対する赦しを教える際に示すのは、マタイ福音書18章23節以下の「地上の王のたとえ」です。ここで王に一万タラントの負債のあるしもべが登場しますが、主人はこのしもべの約六千億円にもなる負債を免除したというのです。27節。「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」。まさしくこれが神の私たちに対する罪の赦しの姿であるというのです。罪の赦しの動機は、赦される側の私たちにあるのではなく、ただ私たちを「かわいそうに思う」神の自由で主権的なあわれみと恵みのゆえなのであり、しかもここではその借金はただ免除されますが、神の赦しにおいてはその借金は免除されたのではなく、主イエスが私の借金を肩代わりしてくださり、父なる神に対して返済してくださったのでした。そこで払われた代償こそが、主イエス・キリストがあの十字架の上で祈ってくださった「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」との祈りにおいて示され、そして何よりも主イエス・キリストが十字架の上で肉を裂き、血を流すという仕方で差し出してくださったご自身の命であったのです。この主イエス・キリストの尊い十字架の贖いによって、私の償い尽くせないほどの罪、負い切れないほどの負債はすべて弁済され、その罪は赦されたのでした。それにもかかわらず隣人の小さな罪を赦すことのできない私たちに対して、主イエスは自らの赦された罪の負債の大きさとそれを赦される父なる神の底知れぬあわれみと寛大な恵みを教えてくださっています。
 そもそもこのたとえ話が語られる前段の21節以下に次のようなやりとりがありました。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』」。主イエスはこのように言われることで、「いったい何度まで赦せばよいのですか」と赦しの限界を数える人間の狭い心、赦すことのできない心を見つめ、そこに主イエスご自身の十字架を示し、その心を丸ごと包み込むような赦しの恵みを注いでくださるのです。
 私たちは礼拝の度毎に罪の告白を御前に為し、赦しの宣言をいただきます。その悔い改めと告白の祈りの中で、主の御前に罪赦されていることを確信する時に、私たちは隣人の罪を赦すことへと心動かされていくのです。赦された喜びを知る人は、赦すことへと促されて行きます。そのような幸いな道を私たちも歩みたく願います。

 



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