祈祷会  
ウエストミンスター小教理問答講解56

「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
                                   (使徒2:38)

(1)恵みの手段としての主の晩餐
今回からは、二つの聖礼典の一つである「主の晩餐」について学びます。まず第96問を読みましょう。「問:主の晩餐とは、何ですか。答:主の晩餐も、ひとつの礼典です。そのとき、キリストの指定にしたがって、パンとぶどう酒を与え、また受けることによって、キリストの死が示されます。また、ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方でではなく信仰によって、キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ、恵みのうちに成長するのです」。私たちの教会では聖餐式のことを「主の晩餐」と呼んでいますが、これは主イエス・キリストが十字架に掛かられる前夜に弟子たちと食卓をともにされた最後の晩餐の席上で、パンを裂き、ぶどう酒を分け与えられて「これはわたしのからだ」、「これはわたしの血」と仰られた、あの食卓を記念して、それ以降の教会が守り続けてきた礼典です。最後の晩餐の光景は、マタイ福音書26章26節から29節、マルコ福音書14章22節から25節、ルカ22章17節から20節に記されていますが、この出来事が初代教会において守られていった様子は、使徒の働き2章41節、42節の「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」との記事や、使徒20章7節の「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」との記事にある通りです。
 新約聖書の中で主の晩餐について触れられている最も初期の記事はIコリント11章23節以下です。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。このように初代教会の時代から今日に至るまで、教会は主イエス・キリストの十字架の死を記念し、そこに込められた救いの新しい契約を表す礼典として主の晩餐の礼典を守り行い続けているのです。

(2)キリストの祝福にあずかり、養われ、成長する
 小教理問答は、主の晩餐が示すものは第一にキリストの「死」であると言います。まさにパンはキリストの十字架上で裂かれた肉体、ふどう主はキリストが十字架上で流された血潮を表しているのです。しかしそれだけではありません。主の晩餐の礼典が示す第二のもの、それは「キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ、恵みのうちに成長する」ということと教えられます。主の晩餐は文字通り「食する」ということですが、それは私たちがキリストのいのちに養われて成長し続けていくいのちの営みを示しています。そこで大切なことは「繰り返し」と言うことであり、「養われ、成長する」という継続性があるということです。
すでに学んだように洗礼の礼典は生涯において一回きりの決定的なものです。一回の洗礼によって神の子どもとされ、教会に加えられたならば、その立場はもはや揺るがせられることはありません。これに対して、主の晩餐の礼典は、繰り返し繰り返し「主が来られる日まで」行い続けていく継続的なものです。神の子どもたちは繰り返しキリストのいのちの養いを受けながら、そのすべての祝福にあずかり、ますます成長していくのです。そう考えるならば、教会における聖餐がいかに重い意味を持つかが分かってきます。主の晩餐は単なる「飲み食い」でなく、十字架に死に、三日目に復活されたキリストのいのちに養われ続ける、まさに恵みの手段なのです。

(3)身体的・肉的ににでなく、信仰によって
 それにしても、どうしてあのパンとぶどう酒を食するという行為が、そのような恵みを伝える手段となり得るのでしょうか。実はこの問題は宗教改革の教会が直面した最も大きな課題の一つでした。カトリック教会ではパンとぶどう酒がミサ聖祭のたびに実体的にキリストのからだと血に変化するという「化体」の教えを主張していましたが、宗教改革者たちはこれを非聖書的な教えとして退けました。しかしその一方で宗教改革者たちの間でも、パンとぶどう酒は単なる象徴であると考えたり、御言葉によってパンとぶどう酒の中にキリストの肉体がともに現臨すると考えたり、御言葉とともに聖霊が働いて、パンとぶどう酒を通してキリストの臨在に結び合わされると考えたり、さまざまな理解が生まれてきました。今日はその詳細を論じることはしませんが、しかし宗教改革の教会に共通していたのは、「ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方でではなく信仰によって」主の晩餐にあずかるときに、そこにキリストの祝福がもたらされるのであって、大切なのは「信仰によって」ということなのです。
 主の晩餐が洗礼を受けた者にのみ与えられるのも、まさに「信仰によって」ということのゆえであり、「ふさわしい陪餐者」というのもの「信仰」との関わりで考えるべきことです。これについては次の97問で学びますが、未受洗者に主の晩餐が開かれていないのは、時に差別であると批判されたり、そのことで躓きを覚える方があるようです。今日、日本の最大の教団である日本キリスト教団もこの「未受洗者陪餐」の問題が大きく教団を二分しています。そこでは主の食卓は全ての人に開かれ、招かれているのであって、信仰者のみに与える聖餐は差別的であり、信仰を問うことなしにすべての人を聖餐に与らせるべきという主張をする人々がいます。しかし主の晩餐が意味するキリストの恵みを御言において見つめるならば、小教理問答が明らかに語るように「信仰によって」というのが肝心なポイントであることは明らかです。洗礼によって教会に加えられた者たちが、主の食卓にともに集っていのちの養いを受け続ける。その麗しい教会の交わりを見ることで、主の救いを求める人々もまた洗礼という門をくぐって恵みの食卓へと進んで行く。その道筋を教会は繰り返し示しながら、人々を洗礼に招き、主の食卓に招き続けるのです。

 



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