祈祷会  
ウエストミンスター小教理問答講解54

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ3:27)

(1)恵みの手段としての洗礼
今回は、二つの聖礼典のうちの一つである洗礼について学びます。まず第94問を読みましょう。「問:洗礼とは何ですか。答:洗礼とは、ひとつの礼典です。そのとき、父と子と聖霊の御名によって水で洗うことが、私たちがキリストに接ぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになると約束することを、表し証印するのです」。マタイ福音書28章19節、20節で主イエスは弟子たちにこう言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。この「バプテスマ」という言葉が、日本語で「洗礼」と訳される言葉です。もともとこの言葉は「水に浸す」という意味がありましたが、旧約聖書からの繋がりの中では、罪を清めるための水による洗い、沐浴を受け継いでいます。いずれにしても、「水の洗い」が「罪のきよめ」を表しているのが「洗礼」の一つの起源となっていると言えるでしょう。
このように洗礼は、私たちの罪が主イエス・キリストの十字架の血潮による贖いによって完全に洗い流され、きよめられることのしるしです。しばしば諸宗教では神秘的な儀式によって救済の行為が実効的になるとされますが、前回学んだように、洗礼とは、その儀式そのものに人を救う力や、罪を清める効力があるということではありません。御言葉が与える救いの恵みの約束を感覚的なしるしによって私たちにもたらすのが洗礼の恵みです。しかしだからといって洗礼を蔑ろにしていいということにはなりません。これは次回学ぶことですが、洗礼を受けて主の御体なる教会に加わるという点でも洗礼は重い意味を持つのであって、これを単なる儀式として軽んじることはしないのです。

(2)キリストに接ぎ木される恵み
 洗礼は罪の洗いであると言いましたが、さらに洗礼の恵みが持つ豊かな意味合いを小教理問答は次のように言い表しています。「私たちがキリストに接ぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになる」というのです。私が赴任してから教会の洗礼の方式をそれまでの全身を水に浸す「浸礼方式」から、頭に水を注ぎかける「滴礼方式」に切り替えました。その時にも説明したことですが、今日、プロテスタント教会の大きなグループの一つである「バプテスト教会」は、この浸礼以外の方式を認めていません。バプテスト派の洗礼理解は、特にローマ書6章4節の「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」にありますが、特に全身を水に浸し、そこから引き出されることを、罪に死に、新しい人に生きることのしるしとして理解するのです。そしてその場合には信仰者自身の自覚的な新生の経験が重んじられることになるのです。
 小教理問答が強調するのは、ローマ書6章5節の「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」の御言葉です。そこでは信仰者の自覚的な信仰以上に、キリストにある恵みの契約の分与に重きが置かれています。特に小教理問答は洗礼によって私たちが「キリストに接ぎ木され」、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになる」という恵みの契約に基づくキリストとの生命的な結合を強調していることが分かります。洗礼を受けるとは、まさに私たちがキリストと契約の関係に置いても、いのちの交わりにおいても一つとされることのしるしであって、救いの恵みの集大成としての意味を持つことがわかるのです。このこととの関連で思い起こしておきたいのが、いつも引き合いに出す、あの有名なハイデルベルク信仰問答の第1問です。「問:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答:わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生さるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。ここにはまさに洗礼によって私たちがキリストに接ぎ木され、すべての祝福を分け与えられ、キリストのものとなる、と小教理問答が教える救いの恵みが、生と死を貫く唯一の慰めであると語るハイデルベルク信仰問答と共鳴しあっていることを確かめることができるのです。

(3)恵みを表し、証印する
このように洗礼は、私たちがキリストのものとされるという救いの恵みを「表し証印する」ものであると言われます。これは前の第92問で礼典について「キリストと新しい契約の祝福とが、感覚的なしるしによって信者たちに示され、証印され、当てはめられる」と教えられたことと繋がっています。聖礼典は、聖霊が私たちの内に働いていてくださる御業を、外において見えるかたちで示すしるしです。しかもそれは単なるしるし、ということにとどまらず、その聖霊の御業の本質を誤ることなく指し示し、しかも聖霊の御業の確かさを私たちの保証してくれるものです。
 私たちが信仰の歩みの途上で試練に遭い、自らの救いの確信が揺らいだり、疑いの心が生じるとき、私たちはそこで洗礼の恵みの事実に立ち返るべきです。教会では洗礼の日を第二の誕生日のようにして覚えますが、それは一度きりの完全な救いの御業がしるしされた日であるからで、その確かさはもはや疑うべくもないのです。ある先生が、洗礼を受けたというのは、生まれたばかりの赤ちゃんが産湯に浸かるようなものだと言っておられました。だからこそ洗礼はもはや一度きりで十分であり、繰り返される必要もない。いつでも洗礼を受けたあの日の忘れがたい感動や喜び、キリストへの感謝と真っ直ぐな服従の心を新鮮に思い起こし、献身の思いを新たにして主に従っていきたいと思います。

 



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