祈祷会  
ウエストミンスター小教理問答講解50

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:41,42)

(1)あがないの祝福を伝える外的手段
 前回までで、主イエス・キリストのあがないの祝福、すなわち私たちが救いにあずかるために、イエス・キリストへの信仰と、命に至る悔い改めが必要であると学びましたが、それがどのようにして私たちのものとされるのかについて、先の第85問で「キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられるすべての外的手段を、忠実に用いる」ことと教えられていました。そこで今日の第88問から終わりの第107問にかけて、通常「恵みの外的手段」と呼ばれる事柄について学んでいくこととなります。まず第88問を読みましょう。「問:キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な手段とは、何ですか。答:キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な普通の手段とは、キリストの規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。このすべてが、選民にとって救いのために有効とされます」。
 ここでまず注目したいのは、「あがないの祝福」つまり救いを私たちに伝えるのに用いられる「外的」な手段といわれることです。「外的」に対応するのは「内的」ということですが、では「内的」と言うときにそれが何を指しているかを一言で言えば「聖霊のお働き」ということになります。そこで今日の箇所と対応する関係にある第29問と第30問も見ておきましょう。「第29問:キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。答:キリストの手に入れたあがないはが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。第30問:御霊は、キリストの手に入れたあがないを、どのようにして私たちに当てはめてくださるのですか。答:御霊が、キリストの手に入れたあがないを私たちに当てはめてくださるのは、私たちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結び付けることによってです」。ここで言われているのは、要するに人が救われるのは聖霊の働きによる、ということです。ヨハネ福音書3章8節で主イエスが「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われたように、救いの恵みは聖霊によってもたらされるのですが、しかし内なる聖霊の働きの外側への表れとして、私たちに与えられているのが、「外的」な手段ということになるのです。

(2)御言葉、礼典、祈祷
 ではそれらが外的に用いられるときに、聖霊が内側において働いてくださる恵みの手段とは何か。それがキリストが人間に与えられた定めのうち、とりわけ「御言葉、礼典、祈祷」であると教えられます。その一つ一つがどのように働くか、ということについては次回以降詳しく学ぶことになりますが、まずとにかくここで覚えておきたいのは、御言葉を聞き、聖礼典にあずかり、しかもそれらを祈りの中で用いるときに、聖霊の神が働いてくださって、私たちにキリストのあがないの祝福を伝えてくださるということです。
 しかし幾つか注意しておかなければなりません。それはこれらの外的な手段を用いれば機械的に、自動的に救いが与えられる、というように考えてはならないということです。あくまでもここで教えられているのは、聖霊の神が私たちに与えてくださる救いへの召しを、私たちにもたらすために用いられる外的な手段であって、こちら側から聖霊を動かし、キリストのあがないを引き出すことができるかのような手段として考えてはならないということです。もしそのように考えてしまうと、たちまちその手段は恵みの手段ではなく、人間が自分の行いで救いを獲得するための「行」(ぎょう)や「善行」となってしまうでしょう。また「聖礼典」が恵みの手段であるということも、洗礼を受け、聖餐に与り続けると救われる、と考えてはなりません。むしろ神の約束のもとで洗礼を受け、聖餐にあずかり続けていくことで、ますます救いの恵みが確かなものとされていく、そのような救いの完成へのプロセスとして理解することが重要です。さらに、「祈り」は先の二つと同じ意味合いで並んでいるのでないことにも注意が必要です。むしろここでは、御言葉を聞くことや聖礼典に与ることを、私たちが機械的に、決まり切った「行」を行うようなことでなく、祈りの中でこれらを繰り返し用いることが勧められているのです。

(3)外的な普通の手段
 最後に考えておきたいのは、今日の第88問の答えの中で「外的な普通の手段」と言われる意味です。よく小教理問答をはじめとするウェストミンスター信仰基準の諸文書は、非常に論理的に理路整然としており、寸分の隙もなく記されているために、人間の理屈で神の教えを合理的にまとめすぎている冷たい教理問答のように受け取られることがあります。確かにそのような印象を与えるような明解な論理に貫かれていることは確かなのですが、しかし、注意深く読んでいきますと、実は短い言葉遣いの中で、人間の考えの限界をよくわきまえ慎み深く聖書に聞こうとする謙虚な姿や牧会的な配慮に満ちた言い方を見出すことができるのです。その一つの例がこの「普通の」という言葉と言えるでしょう。
 つまりここでは御言葉を聞き、聖礼典にあずかり、祈りの中で救いにあずかっていくという「普通の」導かれ方のことを言っているのですが、そこでは言外に、そのような普通の手段を用い得ない人々のことが意識されているのです。中でもウェストミンスターが特に意識しているのは、信仰者たちの家族で生まれてまもなく亡くなる幼児たちのことでした。そのような幼児たちの存在について、神の恵みの約束と聖霊の召しの中で、普通の外的手段を用いずとも救いに迎えられることがあるとウェストミンスター信仰告白にも記されています。その他にも、例えば生まれつき障害を持つ方や認知症が進んでいる方など、普通の外的手段を用いて自覚的な信仰を持ち得ない場合にも、そこで聖霊の内的なお働きに信頼することが許されているということなのです。
 もちろんこれらについてはそれこそ主なる神の主権のもとにあることゆえに、断定的な言い方は慎まなければなりません。ただここではそのような人々にも自由に働かれる聖霊の恵みのお働きがあるということを覚えながら、「外的な普通の手段」についての教えが記されていることを心に留めておきたいと思うのです

 

 



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