祈祷会  
ウエストミンスター小教理問答講解47

「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人に対して言われていることを知っています。それは、全ての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:19,20)

(1)神の戒めと人間の限界
 前回までで十戒の解説が終わり、今回からはイエス・キリストによる救いの本質と、その救いにあずかるために私たちに与えられている「恵みの外的手段」ということが教えられていきます。まず第82問を読みましょう。「問82:神の戒めを完全に守れる人がいますか。答:ただの人は、堕落以来、この世では、だれも神の戒めを完全には守れず、日ごとに思いと言葉と行いにおいて破っています」。これまで十戒の一つ一つの戒めを丁寧に説き明かし、その戒めの持つ消極面と積極面にも言及してきたにもかかわらず、その全体の締め括りとなるところで、小教理問答は、人は自分の力で神の戒めを完全に守り、神の求めておられる義の基準を満たすことができないと教えます。ここでの「ただの人」とは「生まれながらの人」ということですが、まさにローマ書3章10節以下でパウロが旧約を引用しつつ「義人はいない、ひとりもいない」と語るように、「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」のです。さらに「ただの人は、堕落以来、この世では、だれも神の戒めを完全には守れず、日ごとに思いと言葉と行いにおいて破っています」とは、いわゆる「全的堕落」を教えるところです。アダムの堕落以来、全ての人は神の前に罪ある者であり、その罪の影響は私たちの存在全体にまで及んでいるのです。
 このように律法によって神の求めておられる基準が示されて、それを満たすことができない人間の罪が示されるという論じ方は、すでに第14問で明らかにされていたことでした。「問14:罪とは何ですか。答:罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法にそむくことです」。この段階では「そんなことはない、自分の力でもある程度は正しく生きられる」と虚勢を張ることができたとしても、実際に十戒に示された神の基準を一つ一つ学んでいく中で、やはり自らのうちにはそのような正しさはないことを思い知らされていく。小教理問答の論じ方は、そのような教育的な配慮も行き届いているといえるでしょう。

(2)罪の軽重と罪の報い
 次に第83問と84問を読みます。「問83:律法違反の罪は、みな同じ重さですか。答:ある罪は、それ自体で、またいくつかの加重によって、他の罪よりも神の目には重罪です」。
「問84:罪は、みな、何に相当しますか。答:罪は、みな、この世でも来るべき世でも、神の怒りとのろいに相当します」。ここで論じられていることは、罪はいずれも神の怒りとのろいに相当するものであることに変わりはないが、しかし実際上は誰が犯したか、誰に対して犯したか、どのような状況で犯したかによって加重されることがある、ということです。この点は大教理問答が非常に詳しく次のように論じています。「問151:ある罪を他の罪よりも重罪とする加重とはなんであるか。答:罪は、次のことから加重される。一、犯罪者から。彼らが、年上の人、一層豊かな経験なり長所をもつ人、職業・賜物・地位・職務のゆえに卓越した人、他の者の指導者であり、他の者が手本にすると思われる人である場合。二、被害者の側から。直接、神とその属性と礼拝に対し、キリストとその恵みに対し、聖霊とその証しと働きに対し、上の人、卓越した人、特別に関係や契約のある人に対し、聖徒のだれか、特に弱い兄弟、彼らや他のだれかの霊魂、また、すべての人あるいは多くの人の共通の福祉に対する場合。三、犯罪の性質・特色から。律法の明らかな条文に対し、多くの戒めを破り、そのうちに多くの罪を含む場合、心にいだかれているだけでなく、言葉と行動にほとばしりで、他人の顔に泥を塗り、償いの余地を残さない場合。恵みの手段・あわれみ・さばき・自然の光・良心の確信・公私の訓戒・教会のけん責・国法による刑罰に対する場合。神と人に対する祈り・企て・約束・誓い・契約・約定に対する場合。熟慮の上・故意に・強引に・無礼に・傲慢に・悪意をもって・ひんぱんに・頑迷に・喜んで・継続的に・あるいは悔い改めた後に逆戻りして犯される場合。四、時と場所の情況から。主の日、あるいは他の礼拝の時、その直前直後、このような失策の予防策や善後策の後に犯される場合。公に、あるいは他人のいる前で犯され、それによって人々がそそのかされたり、汚されるかもしれない場合」。
 このように罪の問題を具体的かつ詳細に論じるのは、まさに実際の生活の中で罪の問題を現実的に理解するとともに、自らの罪深さを思い知らされながらも、聖霊の憐れみの中で神の御心に沿う生き方を願った信仰者たちの聖なる生活への思いの表れでもあったと言えるでしょう。
 
(3)神の怒りを免れるために
 このように現実に生活の中で犯す私たちの罪には軽重があるのですが、しかしどんなに小さな罪であっても、それは神の怒りとのろいを招くものであることに変わりはありません。では律法はそのような神の怒りを示すだけで、私たちはただその前に絶望し、途方に暮れるほかないのでしょうか。そこで続く第85問以下は、本来、神の御前に罪を犯したがゆえに神の怒りと呪いを受けるべき私たちに、神がその裁きを免れさせるための道を開
いていくださったことを教えます。「問85:罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神は、私たちに何を求めておられますか。答:罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神が私たちに求めておられる事は、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられるすべての外的手段を、忠実に用いて、イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改めをすることです」。
 この点は次回詳しく学ぶことにしますが、ここで論じられていることは、まさしく信仰の真髄に関わることであり、それはパウロがローマ書3章で論じていることそのものであるともいえるのです。そこで最後にローマ書3章21節から24節を読んでおきます。「しかし、今は律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」

 



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