祈祷会  
ウエストミンスター小教理問答講解46

「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」出エジプト20:17)

(1)第十の戒め
 今日は十戒の第十戒を学びます。最初に第79問から第81問を読んでおきましょう。「問79:第十戒はどれですか。答:第十戒はこれです。『あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない』」。十戒の後半、神の御前における人と人との戒めは、殺人、姦淫、盗み、偽りの証言と進んで最後に隣人の家を欲しがるという「むさぼり」、「貪欲」の罪へと行き着きます。宗教改革者カルヴァンは、殺人、姦淫、盗みと言った戒めの前では自分は無垢であると言えたとしても、「隣人の家を欲しがってはならない」という最後の戒めに出会う時、神が鋭い両刃の剣を持つ者として立っておられ、それによって私たちの心の内側にあるすべてのものが顕わにされ、自覚させられる、と言いました。ちょうどそれは私たちの外面的な行為という皮を切り取って、そこから内面の罪の思惑へと切り込んでくる鋭い剣のような戒めです。「隣人の家を欲しがること」、これは他の日本語訳聖書が「むさぼってはならない」と訳すように、私たちの心の奥底に潜む貪欲を指しています。そしてこの戒めが十戒の最後に来ているのは、実はこの心の中に巣くう貪りが、やがて外側の罪へと結実することを聖書が見据えているからなのです。主イエス・キリストもマタイ福音書15章18節、19節で次のように言われました。「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」。

(2)むさぼりの罪
 このむさぼりの罪についても、小教理問はその戒めの消極的な禁止命令と積極的な遂行命令を教えます。そこでまず禁止の命令を先に見ておきたいと思います。「問81:第十戒では、何が禁じられていますか。答:第十戒が禁じていることは、すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわせを妬んだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せることです」。
 隣人の家を欲すること、それは単に隣人の所有物や財産にとどまらず、隣人の妻やその暮らし向きの全般をも含んでいます。そしてそれらを欲する思いが頭をもたげてくるのは、私たちの中に自分自身の生活への満足が消え失せて、隣人の幸せに対する羨みや妬みが生じてくる時なのです。私たちの置かれている世界は、一方ではその日一日を生き延びるために必要な食物すら十分でなく、飢えと貧困にあえぐ大多数と人々と、必要以上のモノに溢れかえっていながら、なお満ち足りることが出来ずに飽くなき欲望に突き進む少数の人々という二つの世界に引き裂かれています。私たちも満ち足りることを忘れて、いつもどこかにまだ足りない、まだ十分でない、という焦りにも似た感覚を駆り立てられて日々を過ごしているのではないでしょうか。
(3)満ち足りる心
 小教理問答はさらに積極的な遂行命令として、次のように教えています。「問80:第十戒では、何が求められていますか。答:第十戒が求めていることは、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです」。私たちがむさぼりの罪、貪欲の罪、嫉妬や不平不満の罪から自由にされて生きる道は「私たち自身の状態に全く満足すること。隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足すること」であると教えられるのです。
 ここで大切なのは満ち足りる心と隣人への愛です。この二つは切り離すことができません。私たちが自分自身のあり方に深い満足を得る時に、隣人に対しても開かれた愛の心を持って接することができるのであり、自分を自分として愛する時に、隣人を隣人として愛し、尊ぶことができるのです。しかしこの二つが引き裂かれていくならば、自分自身への不満はたちまち隣人への嫉妬となって燃え上がるか、あるいは隣人愛を失うならば、自分自身の暮らし向きを自慢して隣人を見下すようにさえなるのです。
 使徒パウロは若い伝道者テモテに対し、Iテモテ6章6節でこう書き送りました。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」。このような人生態度を持ちうるのはいったいどのようにしてなのでしょうか。それは、根源的に私たちを満ち足らせてあまりあるほどの大いなる愛を、父なる神が御子イエス・キリストにおいて注いでいてくださることに心の目が開かれていくことによってでしょう。主イエスはヨハネ福音書4章14節で、ご自身を指してこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」。また、6章35節では、「わたしがいのちのパンです、私に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」とも言われました。私たちを愛し、導き、養ってくださる憐れみ深い神が、すべてのすべてであられるキリストの愛によって私たちを満ち足らせてくださるのです。
 この愛に満足する時、私たちは満ち足りることから一歩踏み出して、分け与えることへと進むことができるのではないでしょうか。三位一体の完全な愛の交わりの中に自己充足しておられた神は、しかしその交わりを開いて、ご自身を私たちに与えてくださる自己贈与の神でもあられます。そのように愛は分かち合われるものであり、分け与えられて隣人を満たし、生かすものです。「あなたは隣人の家を欲しがってはならない」。この戒めを神の愛に生かされる自由な道しるべとする時、隣人との間に愛と喜びを分かち合う交わりが生まれてくるのです。

 



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