祈祷会  
ウエストミンスター小教理問答講解39

「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)

(1)第三の戒め
 今日は十戒の第三戒を学ぶことにします。第53問を読みましょう。「問:第三戒はどれですか。答:第三戒はこれです。『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰しないではおかないであろう』」。十戒の第三戒は「御名の濫用禁止」の規定です。ここで「みだりに」という言葉は、もともとの意味では「むなしい」とか「空虚な」という意味であり、そこから軽々しく、中身の伴わない空しいことのために主の名を唱えてはならないと理解することができます。このことを私たちが日々の信仰生活の中に位置付けるために、この戒めを「礼拝」という文脈の中に位置付けておきたいと思います。聖書における最初の礼拝の記録は創世記4章26節にあります。「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」。主の御名によって祈ること、それが礼拝の始まりであったとされ、第一戒の「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」は、私たちがだれを礼拝するのかという礼拝の「対象」について、第二戒の「偶像を造ってはならない」は、私たちがどうやって礼拝するのかという礼拝の「方法」について、今日の第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」は、私たちがどのような心で礼拝するのかという礼拝の「心」あるいは「態度」について、そして次回学ぶ第四戒の「安息日を聖とせよ」は、私たちがいつどこで礼拝するのかという礼拝の「場」について教えているというのです。
 このように、主の御名をみだりに唱えてはならないという戒めを、礼拝における心のあり様、礼拝の態度という視点で考えるならば、そのことが身近な言葉となって聞こえてくるのではないでしょうか。ここに集ってはいても、明日からの仕事、残してきた用事、心にかかるあのことこのことで心が一杯になっていて、体はここにあっても心ここにあらずと言ったような礼拝の態度、主の御名を求めることよりも自分の願いや思いが先に立って自分勝手に振る舞う礼拝。それらもまた十戒の第三戒が戒めている礼拝の態度であるというのです。

(2)礼拝への姿勢を整える
 次に第54問から第56問を読みます。「問54:第三戒では、何が求められていますか。答:第三戒が求めている事は、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。問55:第三戒では、何が禁じられていますか。答:第三戒が禁じていることは、神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなものをも、汚したり濫用するすべてのことです。問56:第三戒に加えられている理由は、何ですか。答:第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。
 第三戒を礼拝における私たちの態度、心の有り様と捉えると、続く第54問以下の問答の趣旨もよりはっきりして来るでしょう。「神の御名、称号、属性」ということは神御自身の御性質を表す言葉ですが、私たちが礼拝する御方について、これを私たち自身の都合の良いお姿に変えてしまうならば、それは御名の濫用に当たるというのです。また後半の「規定、御言葉、御業」とは、礼拝における説教を聞く姿勢、賛美や聖礼典に与る姿勢、また献金や奉仕の姿勢にまで広げることができるでしょう。これらをきよく敬虔に用いること、すなわち神が求められる方法に従って、これに心を尽くして誠実に取り組むことが教えられているのです。
 教会では「礼拝の心得」を掲げていますが、私たちはどれほど礼拝に対して注意を払い、そのために祈り備えているでしょうか。礼拝に向けての心の内側の備えとともに、外側に現れる具体的な一つ一つのことへの姿勢が、神の御前にあることの厳粛さや、真摯さ、敬虔さを失っているならば、それもまた第三戒に照らしてあらためて自己吟味を必要とすることと言えるでしょう。繰り返し繰り返し自らの礼拝者としての在り方を確かめるためにも、この戒めの言葉を心に留めておきたいと思います。

(3)主の御心に生きる
そもそも、主なる神様がご自身の名についてこれほどまでに厳しい要求をされるのは、それが単に呼び名の問題ではなく、そこに主なる神のご存在そのものとその聖さとが関係しているからなのでした。主なる神が御自身の名をモーセに明らかにされた時の様子が、出エジプト記3章13節、14節で次のように記されています。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたら良いのでしょうか」。すると神は答えられます。「わたしは、『わたしはある』という者である。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と」。この「わたしはある」がいわゆる「ヤハウェ」という神の名です。ここには神の永遠において存在し、しかも孤独の神としてではなく私たち被造物との交わりを持ちたもう生ける神のお姿が現れています。しかもこのお方が「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と仰せくださっているのです。それゆえに私たちはこのお方を空しいことのために呼んだり、自分勝手な中身の伴わないことのために安易に礼拝することはできません。主イエス・キリストがマタイ福音書7章21節で「主よ、主よという者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです」と言われたように、私たちは父なる神、主なる神のみこころを求めていかなければならないのです。

 



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