祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解36

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」                                (出エジプト20:2)

(1)十戒の区分について
今日から十戒の一つ一つの内容についての解説に入ります。そこでまず取り上げられるのは、冒頭に読んだ出エジプト記20章2節にある十戒の序言の言葉です。第43問を読みましょう。「問:十戒の序言は、何ですか。答:十戒の序言は、次の言葉にあります。『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。ここで小教理問答が十戒の解説に先立って、この序言の言葉から説き明かしているのは意味深いことです。実は十戒の区分についてはユダヤ教とキリスト教では数え方、区分の仕方に違いがあり、さらにキリスト教会においてもカトリック、ルター派、そして改革派教会で区分の違いがあります。そしてそこではこの「序文」の扱い方にも違いがあるのです。では実際にどのような区分の仕方の違いがあるかというと、まず今日の序言を十戒に含めずに、次の戒めから、つまり小教理でいう第一戒と第二戒から数えるもの、次にこの第一戒と第二戒を一括りにするもの、そして第十戒を二つに分けるもの、ということになるのです。特にカトリックの場合、第一戒と第二戒を一括りにすることで第二戒の偶像礼拝の禁止が独自の位置を失い、第一戒の補足説明のような位置に低められた結果、聖像崇拝や画像崇拝を正当化することになっていってしまいました。ルター派の場合も区分においてはカトリックと同様であり、それが結果として礼拝堂における様々な装飾、目に見えるものへの緩やかな態度を産むことになっていると言えるでしょう。
 一方、改革派の伝統では第一戒と第二戒はそれぞれ固有な戒めとしての位置と意義を持つのはもちろんのこと、特に顕著なのが十戒の中に「序言」を含めるという考え方です。序言の意義を強調したの代表的な人物はやはりカルヴァンです。カルヴァンは自らが作成したジュネーヴ教会信仰問答の第136問にこう記しています。「第一の戒め、あるいは第一の箇条を唱えてごらんなさい。答:イスラエルよ聞け。我は汝の神エホバ、汝をエジプトの地、すなわち奴隷の家より導きいだせし者なり。汝、我が顔の前に我のほか神を持つべからず」。このように第一戒を序言を含めて数えるのは、カルヴァンが多くを学んだストラスブールの改革者マルチン・ブツァーも採用するもので、ブツァーの1537年のカテキズムの第179問、180問にも次のように記されます。「問:あなたは十戒を知っているか。答:はい、先生。問:それは何と言っているか。答:第一戒 私は主。あなたの神。あなたをエジプトから、奴隷の家から導き出した者。あなたは他の神々を私と並んで持ってはならない・・・」。また私たちに馴染みの深いハイデルベルク信仰問答の第92問でも次のように教えられます。「問:主の律法とはどのようなものですか。答:神はこれらすべての言葉を告げられた。第一戒、わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。こうしてみると小教理問答の十戒の取り扱い方は、その序言の意味を重んじているという点でカルヴァンの流れを汲んでいることが明らかとなるのです。

(2)契約の神、あがないの神の戒め
 次に序言の内容を説く第44問を読みましょう。「問:十戒の序言は、私たちに何を教えていますか。答:十戒の序言が私たちに教えている事は、神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある、ということです」。こうして小教理問答は、十戒の序言が教えることとして二つのことを挙げています。一つは「神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられる」ということであり、いま一つは「私たちはそのすべての戒めを守る義務がある」ということです。そこでまず第一に私たちが注目したいのは、まず神が「主」、「私たちの神」、「あがない主」と言葉を重ねて言い表されている点です。冒頭で開いた出エジプト記20章2節に「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」とありますが、これは直接的には文字通り、エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民を、主なる神がモーセによって救い出してくださった大なる救いの出来事を指していました。小教理問答は、しかしこの救いの出来事を、まさに私たちの罪から救いの出来事に広げて当てはめているのです。すなわち、父祖アブラハムへの契約を忘れず、その子孫である神の民イスラエルを奴隷の家から救い出してくださったイスラエルの神、主は、その契約の成就として、御子イエス・キリストをお遣わしになり、罪の奴隷であった私たちを御子のあがないによってその状態から解放し、救い出してくださった、まさしく私たちの主であり、あがない主であられるという信仰をここで言い表しているのです。
 第二のことは、「神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある」という前段と後段のつながりです。私たちはしばしば十戒を後段に語られている「義務」としてのみ受け取り、それによっていつのまにかこの律法によって自らを縛ろうとしたり、あるいはそれを行う自らを誇ろうとする律法主義に陥りやすいのですが、小教理問答は、なぜ私たちにこれらの戒めを守る義務があるのか、その理由を「神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので」と説明付けるのです。なぜ神の戒めを守るのか。これが分からないまま、深い納得のないままで戒めに従っていこうとするときに、そこには喜びは生まれてきません。しかしこの戒めを与えられた御方が、私たちの主、あがない主、私たちを救うために御子イエス・キリストを賜るほどの愛を注いでくださった主なる神であられることを思うとき、この主の御心に従い、戒めを守って生きることは、主への感謝と愛の応答となっていくのです。これは主イエス・キリスト御自身がヨハネ福音書14章15節で語っておられたことでした。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」。そしてこの主の御言葉に応答してIヨハネ5章3節でこう言われています。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」。
 これから十戒の一つ一つの戒めを学んでいくにあたり、まず最初にこの序言に込められた主なる神の愛と御真実を覚え、この主の愛に感謝し、応答して、主の御心に生きる道を一歩一歩進んでまいりたいと思います。

 



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