祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解35

「『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』そこで、イエスは彼に言われた。『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』」(マタイ22:36-40)

(1)律法の要約の意義
 今回から、神が求めておられる私たちに服従の基準として示された道徳律法の要約である「十戒」について学び始めることになります。そこで第42問を読みましょう。「問:十戒の要約は、何ですか。答:十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです」。小教理問答は、十戒の説き明かしをするに当たって、すぐに内容の解説に入ることをせず、最初にその要約は何であるかを問います。これはこの問答の大変優れた配慮であると言うことができるでしょう。なぜならば、しばしば律法の学びは、律法そのものの目的が何であるかを見誤ると、本来の学びの目的から大きく逸れていくということが起こりやすいからです。宗教改革時代以降に数多く作られた信仰問答書は、その内容の模範を古代の信仰告白に求めたのですが、そこでは使徒信条、十戒、主の祈りの解説が主な内容になっていました。ですからほとんどの信仰問答書がその中で十戒の解説をするのですが、そこで絶えず意識されていたのは、十戒が救いのための条件として受け取られてはならないこと、行いによる救いを助長するものとなってはならないこと、新しい律法主義を生み出すものとなってはならないことでした。救いは行いによるのでなく、ただただ神の恵みによる。これが宗教改革が再発見した大切な原理であったのです。
 しかし、やがて宗教改革の第二世代に入っていくと、神学の理論化・体系化が進むにつれて信仰の形骸化・硬直化が起こり始め、そこから新しく信仰の敬虔さを取り戻そうとするピューリタンと呼ばれる信仰の運動が起こるようになり、それらの信仰の集大成として造り出されたのがこのウェストミンスター信仰基準であったのです。ところが、皮肉なことにウェストミンスター信仰基準が用いた神学的な論述の方法論が実に簡潔で論理的なものであったことから、しかも小教理とともに大教理問答における十戒の取り扱い方が実に詳細で膨大なものであったため、それらが律法主義的な響きを持つものとして誤解され、一部の教会の中でしばしば敬遠されるという現象が起こるようになっていったといういきさつがあるのです。しかし、それらは大きな誤解を含んだ評価といわなければなりません。そしてそのような誤解はことごとく、この第42問の意義を十分に受け取ることがなかったことに起因しているように思われるのです。なぜ小教理問答が律法の解説に先立ってその要約を記すのか。それはここに記された要約こそが、実は単なる内容のまとめ以上に、十戒全体、律法全体、ひいては旧約聖書全体を私たちキリスト者たちがどのように受け取り、理解すべきかを示す大切な羅針盤としての意味を担っているからなのです。

(2)神を愛し、隣人を愛せよ
 ではそのようにして教えられる律法の要約とは何でしょうか。小教理問答が示す答えは、そのまま冒頭でともに読んだように、新約聖書マタイ福音書において主イエス・キリスト御自身が教えてくださった次の教えでした。すなわち「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と主が言われたように、神を愛することと、隣人を愛すること、これこそが律法の中心であり、また旧約聖書全体の中心でもあったのです。
 私たちはこれから十戒の一つ一つの戒めを学んで行くに当たり、いつでもこの要約を心に留めることが大切です。ここから離れて律法をとらえる時、そこに行いによって己れの救いを成し遂げようとしたり、自らの行いを誇りとしようとするような誤った律法主義が紛れ込んできてしまうのであり、むしろいつでも神を愛し、隣人を愛するための新しい生き方の基準として律法をとらえるとき、そこに自分の愛の無さ、行いの不十分さをつくづく思い知らされながらも、それでも私たちの内に住んでいてくださる聖霊の神に信頼して、主を愛し、隣人を愛する愛へと私たちが新しくされていくこと、新しくされ続けていくことを主に信頼していくことができるのです。そしてこの点において、小教理問答が示す十戒、律法の学び方の基本姿勢は、私たちにその目的を見誤ることなく、むしろ律法が私たちに与えられた本来の道筋を歩ませるための行き届いた配慮がなされているということができるのです。このことは小教理問答の優れた点でありますが、しかし決して小教理だけの独占的なものではありません。むしろ宗教改革の教会がそれぞれの伝統の中で学び取り、培ってきたよきものがここに流れ込み、受け継がれてきたということができるのです。その点で、ここに示されたものの一つの源流として、ルターの小教理問答における十戒の論じ方の一部を、大変味わい深い徳善義和訳でご紹介しておきたいと思います。
「第一 あなたには、ほかの神々があってはならない。お父さん、これなあに。
 答え 私たちはどんなものよりも、神さまを畏れ、愛し、信頼するのだよ。
 第二 あなたはあなたの神の名をいいかげんに唱えてはならない。これなあに。
 答え 私たちは神さまを畏れ、愛するのだ。だから、神さまの名をあげて呪ったり、誓ったり、魔術を行ったり、うそをついたり、だましたりしないで、どんなに困った時でも、いつも神さまを呼び求め、祈り、たたえ、感謝するのだよ。
 第三 あなたは安息日を聖くせよ。これなあに。
 答え 私たちは神さまを畏れ、愛するのだ。だから、説教や神さまのことばを軽んじないで、これを聖いものとし、喜んで聞き、学ぶのだよ。」
 このようにルターは十戒を教えるに当たり、一つ一つの答えの冒頭で「私たちは神さまを恐れ、愛するのだ」と繰り返し語ります。これこそが律法を学ぶ一番大切な心であり、その心が、ウェストミンスター小教理問答における十戒の扱い方の中にも受け継がれているのです。私たちもこの律法の要約の心を十分に受け取りながら、一つ一つの戒めを学び取っておきたいと思います。

 

 



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