祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解31

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(IIコリント5:1)

(1)救われた者が死の時に受け取る祝福
第32問から第36問にかけて、聖霊によって有効召命されている者は「この世で、義認、子とされること、聖化」の祝福にあずかり、さらにはそれらにともなって「神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍すること」といういくつもの祝福を分け与えられると教えられてきました。以上の「この世で」受け取る祝福の教えに続いて、今日の第37問では「死の時」にキリストから受け取る祝福について、そして続く第38問では「復活の時」にキリストから受け取る祝福が教えられていきます。ウェストミンスター小教理問答は他の教理問答のように使徒信条の解説というかたちで救いの教えを述べることをしませんが、これらは使徒信条でいえば「死人のよみがえり、永遠のいのちを信ず」という告白に該当するものということができるでしょう。
 そこで今回はまず第37問を取り上げておきたいと思います。「問:信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。答:信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」。宗教が担う一番大きな課題は、人間にとって避けることのできない人生最大の問題である「死」に対してどのような答えを与えることができるか、ということにあると言えるでしょう。古くから人間たちは死の現実を目の当たりにして、これをひたすら恐れて遠ざけようと禁忌(タブー)と扱ったり、かえって死をことさらに美化していったりしました。宗教改革の時代には中世カトリック信仰の作り上げた「煉獄」思想がはびこり、一方ではギリシャ的な「霊魂の眠り」が主張されたりもしました。東洋的な説話の中にもいわゆる「不老不死」をテーマとしたものがいくつもあるのも、それだけ人間たちが死を恐れ、遠ざけてきたことの表れであるといえるかもしれません。しかし、私たちが聖書の教えに沿って死を理解し、これと正しく向き合っていこうとするときに、この第37問はとても有益な教えであるといえるのです。聖書は人間の死について、これを三つに区別しています。第一は罪の裁きとしてもたらされた「肉体の死」、第二は罪の堕落の中にある私たちへののろいとしての「霊的な死」、そして第三は終わりの時に神に背き続ける魂が引き受けなければならない「永遠の死」ということです。しかしここでまず大切な視点は、小教理が「死の時に、キリストからどんな祝福を受けるか」と問うとき、そこでは基本的に、キリストにあって死はもはや私たちに対して裁きとしての効力を失い、むしろ地上での聖化の完成として位置づけられているということなのです。

(2)死に際しての魂の状態
 主イエスにある者たちが肉体の死を迎える時に受け取る祝福について、小教理はこれを「魂」の問題と「肉体」の問題に分けて捉えます。聖書的な理解によれば肉体の死とは「魂と肉体の分離」ということになるのです。伝道者の書12章7節に「ちりはもとあった土に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」といわれている通りです。そしてその時、私たちの霊魂はどうなるかというと、「全くきよくされ、直ちに栄光にはいる」というのです。ヘブル書12章23節に「全うされた義人たちの霊」という表現が出てきますが、まさしく主にあって死んだ者の霊魂は、煉獄のような中間状態に行くのでもなく、日本の仏教のように行き先が決まるまで地上をさまよってお盆の度に戻ってくるというのでもなく、ただちに全くきよくされ、栄光に入ると教えられます。すなわち第35問で「ますます罪に死に義に生きることができるものとされる」といわれた私たちの地上での聖化の歩みが、ついに完成を迎え、完全な義と聖と栄光をその身に帯びることができ、キリストに似た姿に変えられるという「栄化」の状態に入れられるというのです。

(3)死に際しての体の状態
 次に死の時、私たちのこの肉体はどうなるかというと、「依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休む」といわれるのです。霊魂の聖化の完成が死の時に直ちに行われるのに対して、この肉体の聖化の完成はいましばらく後、すなわち復活の時に起こるというのです。ここに私たちの「体のよみがえりを信ず」という信仰の醍醐味があるのですが、それまでの間、私たちの肉体は火葬にふされ、あるいは土に帰っていく。それ以前に、私たちの肉体は生まれたときからある意味で、確実に死に向かって歩んでいるのです。まさに「老い」の問題は、年を重ねてはじめて出てくる問題ではなく、人間がこの地上に生まれ出たその時から老いの歩みはじまっているのであって、齢を重ねてから急に死の問題と向き合うと言うことでなく、本来は人が生きることの中に、すでに死に向かう備えとその先の永遠のいのちに対する備えが必要なのです。
 しかし小教理は、私たちの肉体が衰え、老いていき、やがては息絶えて冷たくなり、土に帰っていく。もはや愛する者の目の前から消えていき、やがてはだんだんと記憶からも薄らいでいくという人間の捉える死の現実と真正面から向き合って、確かに人間の目には死はそのようなものとして見えるかも知れないが、しかし信仰の眼を通して見るときには、実はそこでも「依然としてキリストに結びつけられたまま」の状態にある、と教えるのです。つまり死という私たちを愛する者たちと引き裂くような圧倒的な現実があったとしても、その死をもってすら決して引き裂くことのできない結びつきがある。それがキリストの結びつきだというのです。これが聖霊によって召されることの恵みだと小教理は教えます。だからこそ、たとえ肉体のいのちが終わりを迎えても、復活の時まで私たちの肉体は墓の中で休み続け、しかしやがて主イエス・キリストにあって復活の朝を迎えるときには、よみがえりの主イエス・キリストが、ご自身に結びつけられた民をひとり残らず、誰ひとり忘れたり置き去りにされることなく、栄光のうちに、永遠のいのちによみがえらせてくださるというのです。これが死の時に私たちに与えられる祝福である。だからこそ私たちはこう告白することができるのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(IIコリント4章16節)。

 



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