祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解30

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」(ローマ5:1-2)

(1)救われた者が地上で受け取る祝福
第36問を読みましょう。「問:この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。答:この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです」。今回取り上げる第36問は、第32問の「有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか」という問いを受けて、救いにあずかった者たちが「この世で」、すなわち地上の生において与えられる祝福を教える箇所です。そして続く第37問、第38問では救いにあずかった者たちが死の時に受ける祝福、さらに復活の時に受ける祝福について教えていく、いわば救いの教理の締め括りともいうべき箇所だということができるでしょう。
 ここで小教理問答は義認、子とされること、聖化に「ともない、それらから流れ出る祝福」と言います。罪の中に死んでいた私たちが、父なる神の無償の愛と御子イエス・キリストの十字架による贖い、そして聖霊による贖いの適用によって救いの中に迎え入れられたこと以上の祝福は本来ないのですが、これらはいわば三位一体の神がすべて成し遂げてくださったことでした。しかし小教理問答は、そのようなこの上ない祝福にあずかった私たち人間の側にも注目します。主なる神が与えてくださる救いの恵みと祝福は、これにあずかり受け取る人間の側にはっきりと実感できる、実に手応えのある祝福を味わわせてくださるというのです。父なる神が永遠の御心の中で定めてくださった救いのご計画が、あの二千年前のゴルゴダの十字架において、御子イエス・キリストにおいて成し遂げられ、それを聖霊の神が、今この私のうちに確かにもたらしてくださる。そうやって私の側に近づき、流れ込んでくる恵みが、私の中において確かに受け取られ、その恵みに満たされる。そのような道筋がここで教えられているのでした。

(2)救いの確かさから恵みの堅忍へ
救われた者がこの世で受ける祝福の中身について、小教理問答は「神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍すること」と教えています。救いが私たちのもとに確かに届けられたとき、そこで私たちの中に湧き起こるのが、かつては愛されるに値しないものであったにも関わらず、そのような者に注がれた大いなる神の愛の確かさでした。そしてこの愛が確かなものであることのゆえに、かつては罪の不安の中で希望なく生きていたにもかかわらず、いまや神の子どもとされた私たちに神との平和が与えられたのです。
 神の子とされた私たちのうちには聖霊が与えてくださる喜びが静かに、しかし確かにあり、聖化の道を辿る中で日ごとに増し加えられる恵みを味わいながら、さらに恵みから恵みへと進むことがゆるされ、しかもその途上で時に罪の誘惑に陥ったり、信仰の試練の中を通されることがあったとしても、終わりまで恵みのうちに私たちを支え続けてくださる聖徒の堅忍の祝福の中に保たれているのです。こうして主なる神はこの世にあって、私たちが主と共に歩む信仰の道のすべてにおいて、私たちを絶えず励まし、慰め、恵みの中に進ませてくださるという恵みを覚えるとき、これほどの祝福の中に今、生かされていることの幸いを深く覚えていきたいと思うのです。
 
(3)聖霊における喜び
最後に、「この世」で私たちが味わうことが許される救いがもたらす祝福のうち、「聖霊における喜び」ということを考えておきたいと思います。小教理問答は第1問で、私たち人間の人生の目的を「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」と言い表しました。それは神のかたちに創造された私たち人間の、最も本来的で、最も自然な生き方であったのです。そしてそのように私たちが最も人間らしく生きるために与えられたのが神の生ける御言葉でした。しかし私たちはこの神に背を向けて罪の中に堕落し、その結果、生ける神との交わりを失って神の怒りと呪いのもとに置かれ、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄と刑罰との責めを負わされてしまったのでした。けれども、主なる神は私たちがそのような罪と悲惨の状態に滅びることをよしとされず、恵みの契約の中で、御子イエス・キリストによる救いを実行してくださったのです。そして今や、聖霊が私たち一人ひとりを召して、この救いを受け入れさせてくださり、そればかりか、このことを本当に深い喜びの中に実感させていてくださるのでした。
 私たちはしばしば信仰生活において「喜び」を信仰のバロメーターとすることがあります。信仰生活が順調なときは「喜びがある」といい、そうでないときは「喜びがない」と口にすることがあります。そして多くの場合、そこでの「喜び」とは、時に私たちに日々の生活における心地よさや気分、自分の願望の達成感に左右されることが多いということはないでしょうか。けれども、私たちに与えられている「聖霊における喜び」とは、私たちの生のもっと深い次元に注ぎ込まれ、そこから汲み出される喜びであることは、今振り返ったような救いへの道筋を辿る時にはっきりとしてきます。言ってみれば、私たちがこのようにして教理を学ぶことの最も重要な意味の一つが、この言葉の本来の意味での「喜び」をしっかりと受け取り、それを味わうためであるということができるのではないかと思います。ヘブル書6章1節に「私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか」とあるように、私たちも信仰の深みに達する歩みの中で、そこから汲み取られる聖霊が与えてくださる深い喜び、救いの確かさを繰り返し繰り返し私たちに味わわせてくださる喜びを受け取りながら、この世において主が差し出してくださる祝福にますますあずかっていきたいと思います。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(ローマ14章17節)。

 

 



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