祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解28

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)

(1)聖化の恵み
 聖霊によって与えられる救いの恵みについて、「義認」、「子とされること」に続いて、今回は「聖化」の恵みについて学ぶことにいたします。第35問を読みましょう。「問:聖化とは、何ですか。答:聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです」。聖化の教えは、主イエス・キリストの贖いにのゆえに義と認められ、神の子とされた私たちが、聖霊の恵みによってその立場と身分にふさわしい者へときよめられ、整えられていくという教えです。ですからこれは救われた私たちの日々の生活における具体的な変化と更新に関わるという点で、とても身近な事柄であり、まさに主イエスを信じた私たちの日々の歩み、信仰にあって生きる生活そのものを扱う教えであるといえるでしょう。私たちが主イエスを信じて歩み始めた信仰生活における大きな関心事は、まさにこの私自身のきよめ、変化についてであり、そこで私の考えや言葉、振る舞いが主にあるものにふさわしくされていくことが、信仰の成長、成熟における重要なテーマとなるのです。
 義認も子とされることも、そして聖化も、いずれも共通しているのは「神の一方的(無償の)恵みによる」ということです。しかし一方では、義認が主なる神との法的関係、子とされることがそれに伴う身分に関わることであるのに対して、聖化はそれによって生じる現実の状態に関わることです。そこから義認も子とされることも神の恵みの一回的な御業であるのに対して、聖化は継続的な御業であるといわれます。義と認められ、神の子とされることは一回的な神の決定であって、その時に瞬時に成し遂げられることですが、聖化はその決定によって私自身が具体的に聖なる者へと変えられていくという変化にかかわるものであって、そこには継続性、漸進性ということがあるのです。

(2)聖化の全体性
 聖化の教えについて小教理問答は「人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ」るといいます。これは聖化の御業が私たちの心と体と魂を含む存在の全体に及ぶ、トータルな御業であることを意味しています。私たちはとかく信仰の事柄を心の内面のことにのみ限定してしまいがちですが、聖書の信仰は、信仰を私たちの生の全体にわたることがらとしてとらえているのです。さらに聖化によってきよめられていく私たちの変化を、「神のかたちにしたがって新しくされる」と説明します。つまり創造の最初の人間は、本来「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」(第1問)ように、「知識と義と聖においてご自身のかたちにしたがって」(第10問)創造されていたにもかかわらず、「神に罪を犯すことによって創造された状態から堕落し」(第13問)、その結果、「罪と悲惨の状態」(第17問)に落ち、その結果「アダムの最初の罪の罪責を負うていること、原義を失っていること、人の性質全体の腐敗つまり原罪があること、そこからあらゆる現行罪が生じていること」(第18問)というような状態にあり、それによって「神との交わりを失い」(第19問)今日に至ってしまいました。
 しかし今や恵みのゆえに主イエス・キリストによって救われ、義と認められ、神の子とされた私たちは、「人の性質全体の腐敗」である罪の赦しをいただき、まさにそのような存在がきよめられ、損なわれてしまっていた神のかたちを取り戻し、人間本来のあり方に向けて新しくされることができるというのです。このように聖化とは、私が私でない何ものかになっていくというのではなく、私が神の約束、キリストの贖い、聖霊の恵みの中で、本来のあるべき姿に取り戻されるということなのです。エペソ書4章23節、24節に「あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」とある通りです。

(3)聖化の継続性・漸進性
 最後に聖化の継続性・漸進性ということについても考えておきたいと思います。最初に申し上げたように、義認、子とされることが一回的で決定的な恵みの御業であるのに対して、聖化は継続的・漸進的な御業であることを、小教理問答も「ますます罪に死に義に生きることができるものとされる」と表現しています。私たちは救われたときに完全にきよいものになるのではなく、聖霊に導かれて歩む日々の積み重ねを通して、その生涯の全体を通して、義に生きるものとして育て上げられていくのです。その途中にはさまざまな紆余曲折がありますし、信仰の停滞もあるでしょう。けれども聖霊は私たちの内にあって確実に、昨日よりも今日、今日よりも明日へと私たちを新しく造り変え続けてくださるのです。このことをハイデルベルク信仰問答第70問でも確かめておきたいと思います。「問:キリストの血と霊とによって洗われるとは、どういうことですか。答:それは、十字架上での犠牲において私たちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって、神から罪の赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります。それは、私たちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです」。
 さらにウェストミンスター信仰告白の聖化論を扱う第13章2節、3節でもこのようにいわれています。「この聖化は全人に行き渡るけれども、この世にある間は未完成である。どの部分もなお腐敗の残部が残っている。そこから、絶え間ない和解できぬ戦いが生じ、肉の欲が御霊に反し、御霊も肉に反するのである。この戦いにおいて、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが、それでもキリストの聖化の御霊からくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る。それで聖徒たちは、恵みに成長し、神をおそれて聖潔を完成していく」。このように聖化の道筋は、私たちの存在全体に及ぶ御業であり、また私たちの生涯全体に及ぶ御業でもあります。だからこそ、私たちは日々、聖霊の恵みにより頼みつつ、礼拝の生活、御言葉と祈りの生活を通して、聖化の途を歩み続けることが必要なのです。

 



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