祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解26

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

(1)義認とは何か
 前回私たちは、キリストのあがないの御業が私たちにもたらされるために働かれる、聖霊の有効召命について学びました。今回からは有効召命によって与えられる救いの御業について、一つ一つ確認しながら学んでいくことになります。これを教理の言葉では「救いについての教え」すなわち「救済論」と呼ぶのです。救済論を扱う際に、通常はこれを二通りの扱い方に分けて考えることになっています。ひとつは旧約から新約に至る聖書に明らかにされた救いのご計画の進展と成就を、神の導かれる歴史に沿って学ぶ考え方で、これを「救いの歴史」(historia Salutis)と呼びます。今ひとつは聖書に記された救いの教えを内容ごとに秩序立ててまとめて学ぶ考え方で、これを「救いの秩序」(ordo Salutis)と呼びます。今回から学ぶ小教理問答はこの区分に照らして言えば、「救いの秩序」に従っていると言えるでしょう。
 この救いの秩序の中で、最初に取り上げられるのが、私たちの信仰の最も中心にあるといってよい義認の教えです。第33問を読みましょう。「問:義認とは、何ですか。答:義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受けいれてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受けとるキリストの義のゆえです」。ここに記されているように、義認とは罪ある私たちのために主イエスが身代わりとなって十字架の贖いを成し遂げてくださったゆえに、もはや私たちは神の御前に罪を認められず、むしろ正しい者、義なる者と認めていただけるということです。しかもそれは神の恵みによる決定であるというのです。ここで小教理問答が「神の一方的恵みによる決定」というとき、前回も触れたことですが、「一方的」とはむしろ「無償の」と訳すべき言葉であって、実際に他の日本語訳では「神の無償の恵みによる決定」と言われています。神が恵みにより無償で罪人である私たちを罪なき者と認めてくださった。私たちの何らの行いによることなく、ただ主イエスを信じる信仰のゆえに、私たちを義なる者と認めてくださった。これが信仰義認の教えです。私たちの信仰のルーツである宗教改革の教会は、まさにこの救いの問題、救いは私たちの行いによるのか、それとも全くの恵みによるのかということを巡ってローマ・カトリック教会から分かれ出てきたのであって、私たちにとって信仰義認の教えは「それによって教会が立ちもし、倒れもする条項」といえるのです。

(2)神の法廷での決定
 義認の教えを私たちが受け取る際によく理解しておきたいのは、これは「全ての罪を赦し、正しいと受け入れて」、義と認めてくださる神の「恵みによる決定」であるということです。つまり私たちの今の現実がどうであっても、主イエス・キリストを救い主と信じ受け入れるとき、聖霊が私のうちに信仰を起こしてくださるのであって、それは他の何ものによっても決して覆すことのできない神の決定なのです。神の法廷で下された無罪判決といってもよいことがらです。私の現実、私の実体はまだ義なる者そのものにはなっていなくとも、まず神が下してくださった判決によって罪は赦され、神の子の身分が与えられ、永遠のいのちの祝福に向かって聖化の道を辿ることが赦されているのであり、しかも最後にはその永遠のいのちの祝福に与ることが確かなこととして約束されているのです。
 このように代々の教会は歴史の中で義認論を、この世の法廷になぞらえて理解してきました。裁判官である神の前に被告として私たちは立たされ、有罪判決は避けられないはずであったのに、判決は無罪であった。呆気にとられる私たちに裁判官は驚くべき事実を告げる。それは裁判官が私を有罪にする代わりに自分の愛するひとり子を有罪とし、私の代わりに死刑に処したというのです。こうして罪に対する処罰は下されたので、私はもはやその罪を問われず、キリストの身代わりによって罪赦され義と認められることができたのでした。

(2)キリストのおかげで
 私たちは私たちが無償で義と認められるために、キリストの大いなる犠牲、いのちの代償が支払われたことを忘れてはなりません。私たちを義と認めることは父なる神にとって決して簡単なことではなかったのです。しかし父なる神はご自分の御子イエス・キリストを十字架につけるほどの愛をもって私たちを愛してくださり、御子イエス・キリストも私たちを愛するがゆえに、この父なる神の御心を最後まで全うしてくださったのです。
 このように考えてみますと、義認の教えを「キリストのゆえに」という言い方で、単に法的な事柄として捉えるだけでは十分とはいえないということに気付かされます。むしろ「キリストのゆえに」という言葉は、「キリストのおかげで」と言い換えてもよいかもしれません。事実、そのようにしてキリストの十字架の御業を恩義に感じることがなければ、この神への感謝も献身も生まれてくる余地はないでしょう。私たちは教理の言葉を学ぶときに、これを単なる救いの論理として味気ない教えの言葉として受け取るのではなく、そこにこめられた神の愛を深く受け取り、キリストのおかげという贖いの御業に深く恩義に感じ、その意気に感じてキリストに従っていくものでありたいと思うのです。
 キリストの義が私たちに信仰をもって受け取られるとき、私たちの生き方が、私のために命を捨ててくださった方のために生きるようになる、そのようなキリストの愛と命に生かされる信仰の歩みを続けてまいりたいと願います。

 



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