祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解14

 「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです」。(Iヨハネ3:4)

(1)罪とは何か
 第14問を読みましょう。「問14:罪とは、何ですか。答:罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法にそむくことです」。前回の人間の堕落の教えに続いて、人間の陥った罪の現実についての教えが記されていきます。ここで小教理問答は罪の本質を教えるに当たり、冒頭に開いたIヨハネ3章4節の御言葉を証拠聖句とします。つまり小教理問答は罪の本質を神の定められた律法との関係でとらえているのです。今日の箇所に該当する大教理問答の第24問では、Iヨハネとあわせてガラテヤ3章10節も掲げられます。「律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる』」。
 ここで大切なのは、何が罪であり、そうでないかを決めるのは私たち人間ではないということです。人間の作り出す掟や法は時代や場所、それぞれの状況において変化するものであり、ある時には可とされることが、ある時には否とされることもあり得ます。しかし聖書はあくまでも神の基準である律法に照らして人間の罪を定めているのです。私たちはしばしば人間の基準によって罪を相対的にとらえがちです。「誰も見ていなければ」、「他人の迷惑にならなければ」、「他の人もしているから」、そういう理由によって罪の基準が変化することがあるのです。しかし小教理は私たちに与えられた生の基準である律法こそが善悪の基準であり、この律法への一致に少しでも「欠けること」も「そむくこと」も罪だというのです。また、私たちはしばしば罪を「どれだけ悪いことをしたか」という罪の多さ、「どれほどの悪いことをしたか」という罪の深さでとらえようとします。しかし小教理問答は聖書の教えに基づいて、罪を神との関係においてとらえていることをよくよく覚えておきたいと思います。犯した罪の多さや深さでとらえられるものは、この罪の本質である律法への違反が生み出す、いわば罪の実りのようなもので、小教理問答の用語で言えば第18問の「現行罪」(現実の違反)ということになります。私たちはそちらのほうにばかり関心を向けがちですが、罪のおおもとに対する根本的な解決がなされなければ、私たちは一時の反省や悔悟の念を抱くことはあっても、真の意味での罪の解決に至ることはありません。神の律法への不一致があるので、私たちは日々、罪を繰り返し、それゆえに神の御前に咎ある者であり、その結果としての神の怒りとのろいのもとに置かれているのです。この点をウエストミンスター信仰告白第6章「人間の堕落と罪、および罰について」の第6項で確認しておきたいと思います。「原罪も現実罪も、罪はことごとく、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから、それ自身の性質上、罪人の上に咎をもたらし、罪人はそれによって神の怒りと律法ののろいのもとにおかれ、その結果、霊的、一時的、また永遠的なすべての悲惨をともなう死に服させられている」。

(2)律法への不適合と違反
 次に、罪が「神の律法への一致に少しでも欠けること、神の律法にそむくこと」と言われることについてもう少し考えておきたいと思います。この部分を一番新しい日本語訳である松谷好明先生の訳では「神の律法に少しでも適わないこと、あるいは、それに違反すること」と訳しています。ここで「適う」と訳される「conformity」は「一致」や「適合」を意味する語です。また「違反」と訳される「transgression」は「限度、境界、範囲を超えること」を意味する言葉です。ここには神の律法という基準を前にした罪の二つの側面、すなわち消極的な側面と積極的な側面が表されているといえるでしょう。消極面ということで言えば、罪とは神の律法が私たちに求める服従の姿勢にぴったりと合う状態に見合わないことであり、積極面と言うことで言えば、罪とは神の律法が定める姿勢を超え出てしまうことなのです。主なる神が求めておられる基準に満たないこと、主なる神が求めておられる基準を超えること、このどちらもが罪であるというのです。
 この点は前回学んだ創世記3章の出来事、蛇の誘惑に陥っていく人間の姿を思い起こす時によく理解できることでしょう。エバが蛇のそそのかしに負けていった一つのポイントは、彼女の心が主なる神の言葉と完全に一致していないことにその原因がありました。エバは神が命じておられることを過小評価し、命じておられないことについては過大に受け取ると言う過ちを犯しました。こうして神が求めておられる基準にかなわず、またそれを超え出ることによって人間に罪が入ったのであり、その経験は今なお、私たちの罪の性質の中に深く刻み込まれているのです。とりわけ後者の神の定められた基準の持つ限度、境界、範囲を超え出る「違反」という側面を特に心に留めておきたいと思います。
 人間は驕り高ぶって神のようになろうとする存在であることを前回学びました。神を無視して自らが神のようになろうとする人間の傲慢さこそが、神の基準を超え出る人間の罪の本質であるのです。私たちは神のかたちに作られた被造物の冠たる人間と、同時に堕落して今や罪と悲惨の中にある罪人たる人間という、聖書の教えるこの人間の光と影の対照的な人間理解をしっかりと受け取っておかなければなりません。この罪を認めてこそ、はじめてこの罪からの贖い主イエス・キリストの十字架による赦しの恵みを味わい知ることができるのです。

 



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