祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解13

 「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ』」。(創世記2:16-17)

(1)いのちの契約
 第12問を読みましょう。「問12:神は、創造された状態の人に、どのような特別の摂理の行為をとられましたか。答:人を創造された時、神は人に、完全な服従を条件として命を契約されました。しかし、善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました」。ここでは神のかたちに創造された人間が当初、どのようにして生きるように命じられていたかが教えられています。神のかたちとして理性、道徳性、宗教性を与えられた人間には意思の自由が与えられていますが、その自由を持つ人間が神の御心に従って生きるようにと与えられた方法が「契約」ということでした。ここで小教理問答が「特別の摂理」と呼ぶのは、人が神との間に結ばれた約束である「契約」を繰り返し確認することで、神の御心に対して自らも意思の自由を働かせながら従っていくように導かれていくことを指しています。またその特別の摂理は「いのちの契約」を通して実行されたと教えられています。「いのちの契約」とは、人が神の御心に自らも喜んで従い、神とともに生き、そのようにして永遠のいのちの祝福の中に生きるようにと神が結んでくださった関係を意味しています。
 この「いのちの契約」には、人が神から与えられた意思の自由を用いて神に従うことを条件とする一方で、それに背いた場合の定めも加えられています。それが冒頭に読んだ創世記2章16節、17節の「善悪の知識の木」に関する戒めでした。私たちは続く創世記3章以下の記述、そして小教理問答第13問以下の人間の罪への堕落の教えを見るときに、この木がここに存在していたことの意味や目的について、「神はなぜこの木から取って食べることを禁じられたのか」、「そもそも神はなぜこの木をここに置かれたのか」というような問いを浮かべることがあります。この木がここになければ人間は誘惑に負けて罪を犯すこともなかっただろうし、そもそも人間がこの木の実を食べる恐れすらなかったはずではないか、とさえ考えて、ともすると人間の罪の堕落の原因を神の側に押し付けようとさえしようとするのです。しかし私たちはこの木が、神の御前での人間の信頼と服従の象徴であったことを覚えたいと思います。神は私たちを御自身の意のままに操るロボットのような存在としてはお造りになりませんでした。そうではなく、神のかたちにに似せて造られた存在として、生ける人格的な神との交わりの中に生き、与えられた理性、意思の自由を用いて主体的に神への服従を選び取り、そうして「いのちの契約」に生きるようにと導かれていたのであり、その逆の場合、すなわち与えられた理性、意思の自由を用いて主体的に神への背反を選び取るならば、「いのちの契約」は破棄され、その制裁としての死がもたらされることをも知らされて、その前での決断が求められていたのです。この神の御前での主体的な生き方こそが神が人間との間に結ばれた契約的な関係であったのでした。

(2)堕落と罪の始まり
 ではこのいのちの契約を前にして人間はどのように行動したのでしょうか。第13問を読みましょう。「私たちの最初の先祖たちは、創造された状態で続きましたか。答:自分の意思の自由に任されていた私たちの最初の先祖たちは、神に罪を犯すことによって、創造された状態から堕落しました」。この最初の人間、アダムとエバの堕落の出来事の顛末は創世記3章に記されているとおりです。創世記3章の記述を読む中で見えてくる、人間の神への背反の理由とそこに至る道筋をまとめてみると次にように言うことができるでしょう。その第一は神の御言葉に対する信頼と服従の不徹底さということです。蛇は最初に女を誘惑しますが、そこでは実に巧妙に神が語られた御言葉そのものとそれを聞き取った女の理解との違いに目を付けて、そこに揺さぶりをかけていきます(3:1-3)。そして彼女の中に御言葉への信頼が不徹底であることを見て取ると、一気にその確信を突き崩していくのでした。御言葉への信頼の不徹底さが、罪への第一歩であったのです。
 第二に、人間に与えられた本来の「神に従う自由」を、それとは正反対の「神に背く自由」へと働かせ、それをもって人間が神に相並ぶ存在になろうとするおごり高ぶりを引き起こしたということです(3:4-6)。神に従う自由を放棄した人間は、自らが神の座に上り詰めようとする。ここに堕落した人間の罪の本質があらわれているのでした。その結果、人間に起こったことは何だったでしょうか。創世記3章7節から13節にこう記されます。「こうのようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』そこで、神である主は女に仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。』女は答えた。『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです』」。
 この記述の中には罪の中に堕落した人間の悲惨さが赤裸々に示されています。「神のようになれる」といって木の実を食べた彼らの身に起こった現実は、むしろ己れの弱さを知って自己防衛に走り、神を恐れ、御顔を避けて身を隠し、人に罪をなすりつけ、責任転嫁し、神にすらその責任を負わせようとする自己中心の姿でした。神に与えられた意思の自由を、神に従うためにでなく、神に背くために用いた結果、人間に訪れたのは創造された状態からの堕落であり、いのちの契約を破ったことに対する制裁としての死の現実であったのです。

 

 



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