祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解6

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)

(1)唯一なる神
 今回は、第5問と第6問を合わせて学ぶことにいたします。そこでまず二つの問答を続けて読んでおきましょう。「問5:ひとりより多くの神々がいますか。答:ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。問6:その神には、いくつの位格がありますか。答:神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です」。ここで取り上げられるのは、神の唯一であられることと、その唯一の神が、父・子・聖霊の三位一体の神であられるという、いわばキリスト教信仰の中心にある奥義的な教えです。まず神の唯一性について、第5問は神はただひとりしかおられないこと、その神は生けるまことの神であられることを教えます。キリスト教信仰のようにただおひとりの神を信じる信仰を「唯一神教」と呼ぶことがあります。これに対して「拝一神教」と呼ばれる立場があります。ほかの神々が存在したとしても自分たちはこの唯一の神だけを信じ、礼拝するという立場です。しかしながら、私たちにより関わりの深い考え方はたくさんの神々がいるという「多神教」ということになるでしょう。
 しかし私たちは聖書によってご自身を啓示された神だけがまことの神であられ、それ以外の人々が神と呼ぶ者はすべて人の手によって作り出された偶像であるとするのです。これは旧約聖書において一貫した信仰の主張であり、出エジプトの時代も、預言者エリヤの時代も、イザヤ、エレミヤの時代にも繰り返し確認されてきた信仰の重要な確信でした。イザヤ書44章9節以下の記述によれば、偶像礼拝とは人が自らの手で作り出した死せる神々への空しい礼拝であり、それに対して聖書が示す神は「生ける、まことの神」であられます。神が生けるまことのお方であられるということは、すでに第4問で見たように、神が無限、永遠、不変のお方であられることと結びついた表現ですが、ギリシャ神話や日本の記紀神話の神々のように争ったり、死んでしまったりといった栄枯盛衰を繰り返す有限な存在でなく、あるいは宇宙の精神や力といった非人格的な存在でもなく、不動の動者のように、凝り固まった石のような存在なのでもなく、私たちを愛し、私たちを導き、私たちに語りかけ、働きかけてくださる生けるお方、私たちに対して常に真実をつくして変わることのない愛なるお方であることを意味しています。
 今日では「唯一神教」は価値観の対立を生む非寛容さの例とされ、むしろ平和と共存のためにはいろいろな神々を受け入れる「多神教」的な価値観のほうがまさっているなどと言われます。しかし大切なことはただ一人の生けるまことの神の真実さを、こちらもまた誠実に受け取り、その神の御心に従って生きることであり、その神への誠実さが隣人への誠実さと責任とにつながること、私たちを愛してくださるただおひとりの生けるまことの神を、私たちもまたできる限りの誠実さをもって愛していくということです。そのような誠実さを伴わない寛容さは単なる無責任な態度となってしまうでしょう。
 
(2)三位一体の教え
 次に第6問を見ましょう。「問:その神には、いくつの位格がありますか。答:神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です」。ここで取り扱われるのは三位一体の教えです。最初に確認しなければならないのは、この教えはキリスト教信仰の中でも最大の奥義に属することであり、人間の言葉や考えによっては説明し尽くしたり、知り尽くせない教えであるということです。まさに信仰の歩みの中で深く実感し、納得していく信仰の知識であるということが相応しいでしょう。しかしだからといって中身について何も説明もしないということでは不十分ですので、これについては次回も含めて二度にわたって学んでみたいと思います。
 さて、三位一体の教えは同じ旧約聖書を信じるユダヤ教とキリスト教とを峻別する教えであり、またしばしば教会の歴史の中に登場する異端的な教えと正統的な信仰とを峻別する教えでもあります。特に異端の教えはいずれもこの三位一体を否定するものだったのです。では何がそこで問題とされたのかといえば、「ナザレのイエス・キリストとは何者か」という問いでした。旧約聖書は第5問の証拠聖句である申命記6章4節が語るように神は唯一であると主張します。ところが新約聖書になるとイエス・キリストこそが旧約が預言した救い主メシヤであり、神のひとり子であると言われ、このイエス・キリストを神と信じる信仰が主張されるようになります。ユダヤ教徒はこのイエスをメシヤとすることを受け入れない立場であり、また様々な異端の教えも、イエスを神の子とすることを認めませんでした。今日でもたとえば「エホバの証人」は三位一体を否定して、イエスは単なる人間に過ぎず、聖霊も人格ではなく霊的な力であるといい、「三位一体」という言葉が聖書に出てこないことを論拠としてキリスト教信仰が誤謬であると主張しているのです。
 しかし聖書を丹念に読み、また私たちが主イエス・キリストを信じ、救われたというこの現実をとらえる時、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神が三つにして一つなる生けるまことの神であられることは否定することができません。父なる神は主イエス・キリストを「これはわたしの愛する子」とお呼びになり、御子イエス・キリストも「わたしと父とはひとつである」と言われ、また聖霊についても「御父からのもうひとりの助け主」とお呼びになっています。またこの聖書の教えに基づいて、様々な異端との戦いの中でイエス・キリストが神であられ、聖霊もまた神であられることを確信していった教会が言葉では言い表せない神秘をぎりぎりのところで表現し、定式化していったのが三位一体の教えなのです。いわばその集大成とも言えるのが、私たちが主の日の礼拝のたびに告白する「使徒信条」や「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」です。そこでは父と子と聖霊の神を一人の神として信じる信仰がはっきりと言い表されているのです。

 

 



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