祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解5

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」                                  (ヨハネ4:24)

(1)神の存在を問う
今回からいよいよ教理の中身に入っていきますが、その最初に取り上げられるのは私たちの信じる神とは、いったいどのようなお方なのかということについての教えです。第4問を読みましょう。「問:神とはどんなかたですか。答:神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」。宗教改革時代に作られた数多くの信仰告白や信仰問答も、神について説明するに当たり、その唯一であられること、三位一体であられること、無限、永遠、不変なるお方であることなどを告白していますが、小教理問答はそれらの教えを引き継ぎつつ、さらにそれらを簡潔な言葉に煎じ詰めて言い表しています。しかしこの内容に入る前に、そもそも神がいかなるお方であるかを人間が定義したり、説明したりすることができるのかを考えておきましょう。私たち人間は当初、神のかたちに造られた存在として神を知る知識が与えられていました。宗教改革者カルヴァンはこれを全ての人間の心に植えられた「宗教の種」と呼んでいます。しかし罪に堕落したために私たちは正しく神を知り、自ら神を求めることができず、それぞれが自分の考え出したものを自らの神々として拝むようになってしまいました。これが聖書の言う偶像礼拝の本質です。もちろん今でも神は御自身の御存在と御業の素晴らしさをこの被造物世界を通して表していてくださいますが、私たちはそれらによって造り主の神を知り、神のもとに立ち返ることができなくなってしまっています。しかし、神は私たちに御子イエス・キリストをお遣わしくださり、御子イエス・キリストを通して父なる神を示してくださり、さらには約束の聖霊を送っていただいた今日では、神の御言葉なる聖書を通して神を知る者とされているのです。
 つまり、私たちは自分の生まれもっての知識によって神を知ることはできないし、そもそも創造主なる神は被造物である私たち人間には到底知り尽くすことのできないお方なのです。しかしその上で、今日私たちは聖書の御言葉を通し、神が私たちに示していてくださる限りにおいてその御存在と御業、そして今もなお示され続けている御自身の御心を知ることがゆるされているのです。このように考えるならば、小教理が教える神についての知識は人間の考えによって想像されたものではなく、聖書が語っている教えの最低限のまとめであってこれで神の存在を言い尽くしたということではないけれども、聖書を通して私たちは神についてこのように知ることが許されていると言うことができるでしょう。

(2)霊なるお方
そこで聖書に導かれて小教理問答が示す神の御性質は「霊なるお方」であるということでした。神が霊的な存在であられるということは、消極的な言い方をすれば「目に見えない」ということですが、より積極的な意味では、神は宇宙のエネルギーや森羅万象を導く法則、抽象的な力などではなく、人格的な存在であられるということです。目には見えないけれども生きておられる神。私たちを愛し、私たちを導き、私たちとつねにともにいてくださり、御子イエス・キリストを通し、聖霊によって救いを与えてくださる、人格的な愛のお方であるということです。なので続く答えにおいて「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」といった知性、感情、意志のすべてに関わる御性質が語られることになるのです。厳密には神のかたちに似せて私たち人間が造られたのですから、人間に共通する性質をもって人格と呼ぶのは本末転倒なのですが、「人間に神格がある」というと誤解を招く表現になるので、ここではこのまま用いておくことにします。ここでさらに考えたいのは、神が霊であるという教えは、次の第5問の神がただおひとりであるという教えといつもセットで考えなければならないという点です。これは特に日本人の宗教性、自然の中にも人格的な霊があることを信じる汎神論的な自然崇拝の宗教性の中に生きる私たちにとって重要なことです。聖書の神は自然界のあちこちに存在する種々の霊魂ではなく、あくまでも唯一なるお方であられるのです。

(3)無限、永遠、不変のお方
次に、霊なる神はその存在とともに知恵、力、聖、義、善、真実なる御性質においても
「無限、永遠、不変」のお方であられると教えられます。ここで神学の用語では知恵、力、聖、義、善、真実など神の御性質の中で、私たちにも不完全ながら与えられているものを互いの間に共通点がある、互いに行き来する性質があると言う意味で「流通属性」、無限、永遠、不変といった神にのみ存する独自のあり方を「非流通属性」と言ったりします。ですからこれらの非流通属性について説明すると言うことは本来できないことですが、敢えて言えば、第一の「無限」とはそれこそ限りのないこと、空間的な制限を持たない、いかなる人間の側の引いた線でも括ることのできない存在を示します。別の言い方では神の「遍在」とも言えるでしょう。神はどこにでもおられる。あそこに行っているから、ここには不在。あの人の祈りを聞いているから、今はつながらないということはない。どこにでもおられるので、同時に絶えず私とともにおられると言うことができる、そのようなあり方です。第二の「永遠」とは、時間的な制約を持たない、時間を超えた始めも終わりもないお方ということです。私たちは時間の中に生きていますので、先のことは分からないし、過ぎたことは変えることはできません。しかし神にとっては「今だ」も「すでに」もなく、絶えず私たちと今、とともにおられるということのできる、そのようなあり方です。そして第三の「不変」とは、私たちの神が時間を超えた永遠なる存在であられるゆえに、神には変化がないということです。人間のようにできなかったことができるようになり、またやがて衰えてそれができなくなっていくというようなことはありません。今日は神は私を愛し、私を救ってくださったが、明日には心変わりしていて、明日の気分次第では私の救いもどうなるかは分からない、ということでもない。神は常に真実なお方として、その愛においても、私たちの救いの御心についても決して変わることのないお方なのです。
 このような神の御性質を知ることによって、私たちは「絶対」ということを口にすることのできない自らの限界をわきまえ知って謙遜にさせられ、しかしそのような者に無限、永遠、不変に愛を注ぎ続けてくださる神の愛に心から感謝する者とされるでしょう。私たちは自分の愛する者の傍らにさえ永遠に留まり続けることはできませんし、変わらない愛を注ぎ続けることもできません。しかし神は絶えず真実を尽くしてくださるお方なのです。

 

 



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