祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解4

「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。」(IIテモテ1:13)

(1)聖書は何を教えるか
 第2問で、私たちが神の栄光をあらわし永遠に神を喜びながら生きるために神が与えてくださった基準が聖書であると教えられたのに続き、今日の第3問ではその聖書の内容が何であるかが教えられます。「問:聖書は、おもに何を教えていますか。答:聖書がおもに教えていることは、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです」。小教理問答は第4問から実際の教理内容の解説が始まっていきますので、第3問までは全体の序文のような位置づけになるのですが、そこでまず聖書について記すことに大きな意味があります。信仰の道筋を歩むに当たって自分たちは聖書に基づいて論じるのだという姿勢、聖書を基準とし聖書の御言葉に聴き従っていくのだという姿勢を最初にはっきりと示す。ここにウエストミンスター信仰基準の特色があらわれているのです。
 第3問は聖書の主な内容を二つにまとめて記しました。第一が「人が神について何を信じなければならないか」ということ、第二が「神は人にどんな義務を求めておられるか」ということです。これは聖書の主な内容のまとめであると同時に、この後、第4問以降に続く小教理問答全体のまとめでもあります。実際に目次を見てみますと、小教理問答は第4問から第38問までと第39問から第107問までの大きな二部構成になっていることがわかります。ですから第3問の「人が神について何を信じなければならないか」は、その後の第4問から第38問において展開され、「神は人にどんな義務を求めておられるか」は、その後の第39問から第107問において展開されることになります。この点を目次に沿ってもう少し詳しく見ておきましょう。前半部分は主なる神の御存在と御業(第4問〜第12問)、人間の堕落と罪(第13問〜第19問)、御子イエス・キリストによる贖い(第20問〜第28問)、聖霊による救いの適用(第29問〜第38問)について記されています。これらが「人が神について何を信じなければならないか」を示す、いわゆる教理篇ということになります。後半部分に入ると神が人に求めておられる基準としての十戒(第39問〜第81問)、人間の罪の現実と命に至る悔い改め(第82問〜87問)、恵みの手段としての御言葉と聖礼典(第87問〜第97問)、主の祈り(第98問〜第107問)について記されます。これが「神が人にどんな義務を求めておられるか」ということ、言い換えれば人が神を信じて生きることを示す、いわゆる実践編ということになるのです。

(2)「知ること」と「生きること」
 小教理問答のこのような全体の構成を見渡すと、私たちはこれが小教理問答独自の考えということでなく、新約聖書におけるパウロの論じ方と共通していることに気づかされるでしょう。ローマ人への手紙が前半の1章から11章までで救いの教えを語り、後半の12章から16章までで救われた者の生活を語ることや、エペソ人への手紙でも1章から3章までで救いの教えが語られ、4章から6章までの具体的な勧めが語られていることなどをこれらの顕著な例として挙げることができます。こうして考えて来ると、小教理問答は聖書が私たちに教えていることは「神を信じること」と、「信じて生きること」であるとまとめることができるのではないでしょうか。信じることと生きることを切り離さず、信仰が単なる知識で終始したり、行いによる修行のような信仰生活に陥ることがないように、何を信じ、どのように生きるかを一貫して聖書の御言葉に聞いていこうとする姿勢が示されているのです。ここには当時の教会が直面していた問題が横たわっていたことも忘れてならない点です。一つには教会の歴史に於いて絶えず繰り返されていた行いによる信仰、それが最も顕著に表れていたのが当時のローマ・カトリックの功績思想に支えられた行為義認の考えです。それに対して小教理問答は私たちの為すべき業を語る前に信ずべき事柄を示すことで、神の救いの御業の恩恵性、先行性、優位性を明らかにしました。人は神の求める義務を満たすことで救われるのではない。救われた者が神の栄光を表し、神を喜ぶために善き業に励むのであって、その逆ではないと言うことが明確にされる必要があったのです。また他方では、救いが恵みによって成し遂げられる以上、もはや律法には何の意味もないと主張する律法廃棄論者たちの問題がありました。彼らは、救いは行いでなく恵みであるから、もはやいかなる意味においても律法は不要であるとして、恵みの上に居直り、放縦の生活に陥っていたのです。それに対して小教理問答は、神の恵みによって救われた私たちは神の求めておられる御心に従って生きるのであり、その指針を神の戒めに聞き、神が与えてくださった恵みの手段である御言葉と聖礼典、祈りを繰り返すことによって主の御心に適った生き方に近づいていくことを教えているのです。
 私たちはとかく信じることと生きること、信仰と生活の二元化に陥りやすい弱さを持っています。霊的なことと俗なことを分けて考える二元論的な考えはいつの時代にもあるのです。しかし私たちは信仰を単なる心の問題とはせず、むしろそれが日々の具体的な生き方の隅々にまで浸透することを願い求めるのであり、また同時に、信仰生活が行いによって成し遂げられる修行の道と捕らえることもしません。絶えず私たちに恵みを注ぎ、私たちに日ごとの罪の赦しを与え、キリストの贖いの御業に与りつづけさせてくださる聖霊の神に信頼して私たちの日常生活は続けられていくのであって、「食べるにも飲むにも、何をするにも神の栄光を」と願い求めながら生きる日々においては、信仰と生活は切り離されてはならないのです。私たちは「信仰と生活の」唯一絶対の規範である聖書の御言葉に日々親しみ、教会の礼拝において神の御言葉を聞きながら、聖書が教える「信ずべきこと」と「従うべきこと」をよく聞き取って、主なる神の御心に沿った歩みを続けていきたいと思います。

 

 



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