祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解2

「こういうわけですから、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリント10:31)

(1)神の栄光をあらわす
 前回私たちは第1問の「人の主な目的」ということを考えました。今日はその答えの内容に入っていきたいと思います。そこであらためて第1問を見ておきましょう。 「第1問:人のおもな目的は何ですか。答え:人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。このように小教理問答は人間の生きる目的を「神の栄光をあらわすこと」と「永遠に神を喜ぶこと」であると言いました。これは二つの別々な目的ではなく、一つに結び合わされた人間の究極の目的を意味しています。しかし最初にまず覚えなければならないのは、神の栄光をあらわすということはそもそも生まれながらの罪ある人間にはできないということ、さらには神御自身が栄光に包まれたお方であり、私たちが栄光を現すことをせずとも自らすでに栄光に充ち満ちたお方であられるということ、そして神の栄光の御前では人間は恐れおののくほかないということです。にもかかわらず、主なる神はそのような私たちを通してご自身の栄光をあらわし、ご自身をほめたたえることをよしとしてくださいました。なぜならそれは創造のはじめに主なる神が私たち人間をつくられた時の究極の目的だったからです。イザヤ書43章7節にこうある通りです。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」。私たちがすでに学んだハイデルベルク信仰問答も第6問、創造された当初の人間の目的を次のように解説しています。「人が自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神とともに生き、そうして神をほめ歌い、賛美するためでした」。
 罪の中にあった私たちは神の栄光をあらわすどころか、かえって神を無視し、その御名を汚し、自分の栄光や自分の欲望を追い求めて生きてきました。しかしそれらは真の人生の目的とはなりえないことを知らされ、主イエス・キリストを信じ、救われた時に、本当の人生の目的が何であるかを知ることができるようにされたのです。それは神が創造のはじめに与えられた目的に立ち返ることであり、本来の人間のあるべき姿を回復することを意味していました。もはや自分の栄光、自分の欲望、自分の自己実現が私の人生の目的ではなく、私を形造り、私を生かし、私を愛し、私を救ってくださった神の栄光をあらわして生きること、しかもそれが「食べるにも、飲むにも、何をするにも」とあるように、生活の隅々にまで及び、また日常のもっとも現実的で具体的な場において目指されていくことが大切なのです。私たちが日々を生きる家庭で、職場で、地域で、人々との関わりの中で、そしてこの国で、私たちはその生活のただ中において神の栄光をあらわすのです。栄光の源なる神の輝きによって照らしていただき、その輝きを反射させながら、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべてを神の栄光のあわれることを願う祈りによって方向付けながら、この身をもって神の栄光をあらわす私たちでありたいと思います。

(2)永遠に神を喜ぶ
 小教理問答は、私たち人間の生きる究極の目的として「永遠に神を喜ぶこと」と言います。「神を喜ぶ」とは実に新鮮な言葉です。ここにウエストミンスター信仰基準の大きな特色があると言える、特別な表現です。私たちは先に見た「神の栄光をあらわす」ということを願い求める上で、そのためにはいかにして神をお喜ばせできるかと考えるのですが、小教理は「何をしたら神は喜んでくださるか、どうやって神をお喜ばせするか」ではなく、「神ご自身を喜ぶこと」を教えます。神ご自身の存在が私の喜びである。これは裏返せば神がそのように私の存在を喜んでいてくださることを本当に実感する時に、私たちの内側から溢れ出てくる心なのではないかと思うのです。Iテモテ6章17節には「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」とありますが、ここで神ご自身が「私たちを楽しませてくださる神」と言われていることに注目したいのです。神は楽しみの神、喜びの神であられ、ゆえに私たちを楽しませ、喜びに満たしてくださるお方であり、したがって私たちも神を楽しみ、神を喜ぶことがゆるされる。そのような喜びの交わりが与えられているのです。
 「神を喜ぶ」は原文では「エンジョイ」という言葉が使われていますが、この言葉には本来「受け取る、享受する」という意味があったと言われます。神ご自身を受け取る、神ご自身のすべての恵みと祝福にあずかる。これはハイデルベルク信仰問答が第1問で私たちの生きるにおいても死ぬにおいてもただ一つの慰めが、私たちがキリストのものとされていることと語った確信と相通じるものです。また小教理問答はこの部分の証拠聖句として詩篇73篇25節から28節を挙げていますが、25節には「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」、28節には「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」とあります。神の栄光をあらわし、神ご自身を受け取ることを喜びとする。ここに人の目的があるというのです。
 しかも最後に覚えたいのは、このような人の究極の目的が、ただ単に地上の生涯におけるものだけではなく、永遠のいのちの祝福と繋がっているということです。神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶという人生の目的が完全に成就する時、それは永遠のいのちの祝福に与る時であるというのです。このことを小教理問答は後の第38問で明らかにしています。「問:信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。答:信者は復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ、無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます」。あわせてハイデルベルク信仰問答の第58問も見ておきましょう。「問:『永遠のいのち』という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。答:わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです」。このように主イエス・キリストによって救われ、神に造られた本来の人間の目的に取り戻された私たちにとっては、この地上で生きる日常の営みと永遠のいのちへの祝福とが一つの同じ目的によってしっかりと結び合わされているのです。

 

 



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