祈祷会
ウエストミンスター小教理問答講解1

「だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

(1)ウエストミンスター小教理問答について
 今回から、祈祷会において「宗教改革の信仰の集大成」、「ピューリタン神学の精華」と呼ばれる「ウエストミンスター小教理問答」(以下「小教理問答」と呼びます)による学びをはじめます。この学びを通して、私たちがますます深く主なる神を知り、愛し、それを通して主なる神の栄光を表し、主を喜ぶ者となることを願っています。
 小教理問答は、17世紀英国イングランドのピューリタン革命の最中、1643年から1649年にかけて開催された「ウエストミンスター神学者会議」が生み出した文書の中の一つです。当時、英国内は国王チャールズ一世率いる王党派と議会派が対立して内戦状態にあり、国王の圧政に与する国教会に対立する議会派は聖書に立った正しい教会の改革を願って国内の神学者たちを招集し、ロンドンのウエストミンスター聖堂において実に五年以上の会議を続けていったのです。この会議に集うことは国王と国教会に反旗を翻すことを意味するため、まさにいのちがけの会議であったと言われます。また当時、独立した王国であったスコットランド国内でも国王と議会の対立が続き、ジョン・ノックス以来改革派の伝統にあったスコットランド教会がイングランド国王の圧力の中でカトリックへの転向を要求されるようになり、これに反対して抵抗する人々が立ち上がって内戦が勃発していました。このような状況下で英国の議会派とスコットランドの抵抗グループが協力しあうようになり、神学者会議にもスコットランド教会からの特命委員が派遣されて、これらの諸文書の作成に携わるようになっていったのです。
 このような経緯を辿って作り上げられたのがウエストミンスター信仰告白、大教理問答、小教理問答のあわせて「ウエストミンスター信仰基準」(Westminster Standards)と呼ばれるもので、自分たちが聖書から教えられ、代々の教会から受け継いできた教会の信仰を言い表した「信仰告白」(Confession of Faith)、それを信徒たちに教えるための牧師の教科書、あるいは信仰告白の注解のような役割を果たす「大教理問答」(Larger Catechism)、そして実際の教会員たちのための教材として用いられる「小教理問答」(Shorter Catechism)の三部作となっています。ですから、私たちが今日から学ぶ小教理問答は、実際に教会員たちが繰り返し学び続けるために用いられてきたものです。また神学者会議はこれらに加えて教会政治の要綱や公的礼拝の指針など、実際に教会が建て上げられていくために必要な諸文書を作り出していきました。こうして出来上がったウエストミンスター信仰基準は、その後、主として欧米の改革長老系の教会が広く用いられ、日本でも早くも1873年(明治6年)には「耶蘇教略問答」という名で和訳が出版され、以後、数多くの和訳が出され、今日でも広く普及して多くの教会で用いられてきているのです。

(2)人生の目的を問う
 さっそく、最初の問いを見ておきましょう。「第1問:人のおもな目的は何ですか。答え:人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。小教理問答を知らなくても、この第一の問答だけは知っていると言う人がいるほどに、大変有名な、そして心に残る問答が記されます。ハイデルベルクの時にも学んだことですが、信仰問答のはじめにどのような問いが置かれるかが、その問答全体の性格を決めることになる重要なものです。ハイデルベルク信仰問答は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いで始まっていましたし、カルヴァンが著したジュネーヴ教会信仰問答の第一問は「人生の主な目的は何ですか」という問いになっています。そして今日の小教理問答の第一問の「人の主な目的は何ですか」という問いを読むならば、人の人生の、生と死における、主なただ一つの、慰めや目的は何か、といういわば人の人生の一番大切な問い、究極の問いを発していると言えるでしょう。
 「人のおもな目的」というと少々漠然と聞こえるかも知れません。「人」というのは単に人間一般、人類一般ということにとどまりません。むしろそこでは神の御前にあるこの「私」が問われています。私自身を問うことなしに人間一般を問うてもそれは抽象の話しになるだけで、私の人生に関わる切実さが生まれてはきません。ですからここでは「私の人生」が問われているのです。また「おもな目的」というとこれもまた漠然とした印象があるかも知れません。他の日本語訳では「人の第一の目的」、「主たる目的」となっていますが、もとの言葉では「最高の、主要な、第一の目的」という意味が込められています。また大教理問答では「人の主な、最高の目的は何か」と問われています。つまり人の人生の究極の目的と言ってもよいでしょうか。つまりそれなしには私たちの人生が無に帰せられてしまうほどの、しかしひとたびそれを見出すならば、私たちの人生が決定的な意味を持つほどの究極的で第一の目的、それが問われているのです。主イエス・キリストこう言われた通りです。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)。「人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(同16:26)。 「人は、そして私はいったい何のために生きるのか。私の生きる目的は何か」。これは私たちが人生において一度は必ず向き合わなければならない問いです。そういう大上段に構えた問い方をしないまでも、私たちは日々を生きる中で、なぜ生きるのか、なぜ学ぶのか、なぜ働くのか、その意味を繰り返し問い続けながら生きています。意味のないことのために生きることほど苦痛なことはありません。自分のしていることに何の意味もないとすれば、私たちはたちまち生きる気力を失って絶望の淵に立つことになるでしょう。それは人が意味を問う存在であるからです。けれどもその一方で、この問いに対してはっきりとした答えを断言することのできないもどかしさの中にあるというのが私たちの現実の姿なのではないでしょうか。こういう問いは若い時の青臭い問いだという人がありますが、そうとばかりは言えません。むしろ中高年になっても老年になっても、人は皆この問いかけを抱き続けています。しかしその答えが分からないというと自分の人生が無意味だということになるので、いい学校に入り、いい就職をし、いい家庭を築き、いい社会的地位を得て、いい暮らしをし、いい老年を迎え、あまり周りに迷惑もかけずに最後を迎えられればよい、というような当面の目的でやり過ごしているということではないでしょうか。
 しかし小教理問答はあえて人生の目的を問う、この究極の問いを私たちに向けて発するのです。問いが発せられるからにはそこに答えが用意されています。この問いかけとしっかり向き合いながら、人生の目的を尋ね求め、その答えを受け取っていきたいと思います。

 

 



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