テモテへの手紙一講解その20  2019/05/05
『満ち足りる心を伴う敬虔』

Iテモテ6:3-8

 昨年夏から読み進めているテモテへの手紙第一の締め括りに入っています。今晩は、この書簡の中で幾度となく繰り返されて来た「敬虔」という言葉にあらためて注目し、主が私たちに与えてくださっている敬虔についてともに教えられてまいりましょう。

(1)違った教え、同意しない者たち
 3章以降で、教会における監督や執事などの仕え人の務めについて、また5章では教会の各世代や置かれている立場の違う人々のあり方について教えてきたパウロは、締め括りの6章に入って、あらためてこの書簡の主な目的であった偽教師たちについての注意を促します。3節。「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら・・・」。
 すでに当時のエペソ教会を混乱に陥らせていた誤った教えとそれを持ち込む偽教師たちについては、1章3節から7節や4章1節から10節などで論じられていましたが、ここであらためてそれらの立場がまとめられて、「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者」と言われています。「違ったこと」とは直接的にはグノーシスの霊肉二元論の影響を受けて、旧約聖書を興味本位に扱い、系図などを寓意的に解釈する教えを指していますが、それは何に対して「違った」と言われるかという点が重要です。初代教会においては、主イエスの伝えられた福音が受け継がれ、使徒たちによる教えと結び合わされて、使徒的な信仰が様々な異端的な教えを篩い分けるための「信仰の規準」としての機能を発揮していました。ここでパウロが「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教え」と呼んでいるのは、まさにそのような信仰の規準を指しています。この信仰の規準と違ったことを教え、またこの教えに同意しない。このようなものが教会を大きな混乱と痛みの中に引き込むものでした。
 使徒的な教えに「同意しない」と聞くと、それくらいの多様性、幅が合っても良いのではないかという「寛容」な声が聞こえてくることがあります。一つの狭い枠の中に押し込めるような教会のあり方を「独善的」、「権威主義的」とするような批判です。しかしここでの「同意する」という言葉は、元々は「近づく」、「接近する」という言葉ですが、聖書の中での用法を丁寧に見ていくと、そこには対象に対する恐れや尊敬、恵みへの応答や愛が伴っていることが分かります。つまり健全な教えに同意することは、その教えの源であるお方に対する愛や尊敬が伴う。とするならばこれらに同意しない偽教師たちとは、結局の所、どんなに聖書を語って、どんなに人の関心を引いたとしても、そこに神に対する愛が伴っていないと言うことになるのです。

(2)偽教師たちの姿
 このような偽教師たちの姿を、パウロは実に辛辣な表現でこう言い表します。4節、5節。「その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです」。
 ここでのパウロは、医師が診断するように偽教師たちの症状を分析していきます。彼らの病の中心は「高慢」であり、その症状は「何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする」ことです。同じ言葉を用いながら、片方では健全と敬虔が育まれ、その一方では愚かな論争と議論が繰り広げられる。その結果として「ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じ」るのです。ここに私たちは、最初のつまずきがどんなに大きな影響を与えるかを見ます。教えの違いは決して小さな事ではない。むしろそれがこのような混乱の源であることをしっかり肝に銘じたいものです。

(3)満ち足りる心を伴う敬虔
 ここでパウロはこのような偽教師たちの問題の本質がどこにあるかを、次のように鋭く指摘します。5節。「これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです」。これに対して本来あるべき敬虔の姿を次のように言い表しています。6節から8節。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」。
 ここであらためて復習しておきたいと思いますが、テモテへの手紙の中でパウロが繰り返す「敬虔」、その中身は1章5節で「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」でした。この「健全な良心を捨てて、信仰の破船にあった」のが偽教師たちであったと1章19節で言っています。この敬虔が「利得の手段」とされてしまっている。それが何を意味するかは、むしろキリスト者たちが何を利得と考えたかによって明らかにされるでしょう。「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」。
 神への愛に立たない偽教師たちの働きは、結局自らの名誉や地位や財産に結びつく物質的繁栄に向かっています。しかし主が与えてくださる利得、利益はそのような地上のものと比べてさらに「大きな」ものだというのです。満ち足りる心を伴う敬虔。それは物質的繁栄とはほど遠い、それこと最低限の衣食をもってなお満足できる状態であり、それらを越えた深い満足を与えるものです。それではそのような満足を与えるものは何でしょうか。1章14節、15節。「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです」。このキリストに満足する。そこに同意できなかったのが偽教師たちの誤りでした。キリストに満足する。キリストの十字架に満足する。キリストの十字架の愛に満足する。この愛に満ち足り、満ちあふれるところから、私たちもキリストを愛し、キリストに従って行く歩みを始めてまいりましょう。

 

 



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