テモテへの手紙一講解その19   2019/04/14
『御名と教え』

Iテモテ6:1-2

 今晩からテモテへの手紙一の締め括り、6章に入ります。今日は奴隷として生きる信仰者たちへのパウロの勧めから、主にある者の生き方について教えられてまいりましょう。

(1)初代教会と奴隷制度
 聖書を読んでいく上で感じる難しさの一つに、聖書の時代の文化や習慣、社会状況やそこでの諸制度が、今の私たちとかけ離れていたり、私たちが経験したことがないものであったりすることがあります。21世紀の日本と旧約時代のオリエント世界、新約時代のヘレニズム世界との間に大きな隔たりがあるのは言うまでもないのですが、それでも同じ人間の所業が記される点での共通性がある一方で、今日の私たちが読んでもなかなか理解しがたいことがあるのも事実です。これまでテモテへの手紙を読み進めて来た中でも、例えば当時の女性の社会的な位置づけなどが反映した箇所などは、今日の私たちが理解するのはなかなか難しいものがあります。そしてそれ以上に難しさを孕むのが、今晩の箇所に記される奴隷制度についての記述です。
 旧約、新約を通じて、聖書の中には奴隷について言及される箇所が多くあります。新約聖書では特にパウロ書簡の中に数多く奴隷についての記述がありますが、そこでは基本的に奴隷制度が論じられることはありません。むしろキリストにあっては奴隷と自由人の区別はないとしながらも、奴隷制度廃止や奴隷の即時解放を主張するようなこともありません。このような新約聖書の姿勢、パウロの姿勢を見て、結局のところ当時の政治体制に追従している。虐げられた奴隷たちを表面的な言葉で慰めはするものの、社会の構造的な不正や差別といった悪に対抗せず、日和った態度に終始しているという批判がなされることがあります。とりわけ今日のような箇所は、パウロが結果的に奴隷制度への現状追認の姿勢を示していると批判される箇所でもあるのです。しかしテモテ書におけるパウロの意図、聖書の意図はどこにあるのか。そのことを注意深く読み取っておきたいと思います。

(2)主人に対する仕え方
 1節。「奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に価する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです」。
 まずここで、奴隷としてくびきの下にある人々の、主人に対する基本的な態度が示されます。「あらゆる面で尊敬すべき人と思わなければならない」とは、その主人が個人的に尊敬に値するか云々よりも、その主人という立場のゆえに尊敬せよと教えられている点です。ローマ書13章、そしてIテモテ2章にもあるように、パウロは基本的に、社会の中に置かれている権威や秩序は神によって立てられたものとしてこれを尊重することを勧めます。しかしそれは絶対的服従ではなく、絶えず「神の御前で」という留保が付けられるのですが、しかしそれでも時に権威主義に過ぎると批判されるほどに、立てられた制度、秩序、権威に対してそれに従うという基本姿勢を崩しません。
 そのような態度を勧める根本的な理由は「神の御名と教えが悪く言われないようにするため」というのです。つまり主人への接し方によって、神の御名が悪く言われる口実とされてはならないのです。それはキリスト者がどのような場所に遣わされ、どのような立場に置かれたとしても、そこで相手の出方に関わらず、絶えず自分の相手に対する姿勢を崩さず、ペースを乱さず、いつも変わらず淡々と、しかし真心を込めて誠実に接していく時に、御名と教えが悪く言われることなく、むしろ御名と教えとはむしろ真実に証しされていくのです。

(3)信者の主人に対して
 では、信者の主人を持つ奴隷はどうでしょうか。2節。「信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい。その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから」。
 当時の初代教会のメンバーは実に多様でした。特に異邦人教会にあっては、ギリシャ人、ユダヤ人、奴隷と自由人がともにキリストのからだである教会を形造っていました。そしてそこでは、ある時には同じ教会の中に奴隷とその主人がともにいるということさえあったのです。主なる神の御前にあっては一切の分け隔てはありませんから、主人も奴隷もともに主の御前では兄弟姉妹なのですが、しかし社会における秩序や制度は重んじられなければならない。同じ教会の中に社長と従業員がいたら、なかなかお互いに難しいだろうなと思いますが、それ以上に難しいことがあるであろうことは容易に想像がつきます。奴隷仲間の間では、信仰者の主人を持つ奴隷の方が様々な意味で有利だと思われる節があったかも知れませんし、実際、信者の奴隷の側が信仰を盾に、主人に反抗するような場面もあったようです。
 しかし聖書は「主人が兄弟だからといって軽んじることなく、ますますよく仕えなさい」と教えるのです。主人が未信者ならともかく、信者となれば少しは対応が変わるかと思いきや、パウロの教えは全く変化しません。むしろますますよく仕えよというのです。「その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから」とある通りです。ここでも登場するのは信仰の論理です。奴隷としてではなく、信仰者として接せよとの教えです。その信仰の論理は、未信者に対しては福音の証しとして具体化され、信者に対しては隣人愛の実践として具体化されるのです。つまりパウロの主張は、いずれにしても同じこと、相手によって左右される接し方でなく、信仰者たる自らの主体性に基づく接し方こそが御名と教えにふさわしいとされるのです。
 私たちは相手が信者が未信者かによって対応を変えることを、自らの怠慢や傲慢の言い訳としてはなりません。むしろ相手によって左右されない、内側から溢れ出る神の愛にこそ動かされて、仕え合うお互いでありたいと願います。

 



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