テモテへの手紙一講解その18    2019/04/07
『自分を清く保て』

Iテモテ5:22-25

 今晩は、教会に立てられた大切な務めである「長老」に対して、主にある者たちがとるべき態度についての御言葉の勧めからともに教えられてまいりましょう。

(1)按手の重み
 19節から21節で、長老の務めにある者に訴えが出された場合の扱いについて述べたパウロ、特にその訴えが正しく、長老が罪を犯したことが明らか担った場合、「罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いとの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい」と勧めたパウロは、それらを踏まえてさらに次のように記します。22節。「だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい」。
 「長老の務めにあるような人が罪を犯すはずがない」という先入観を持たず、また「世話になった長老の罪を扱うことなどできない」としてえこひいきせず、そもそものこととして「だれにも性急に按手をしてはいけない」と、長老任職の按手に慎重を期すようにと勧めているのです。3月の教団総会で6名の先生方が正教師の按手を受けられました。同盟教団では神学校卒業の際に補教師試験を受け、もっぱら3年、教会で奉仕すると正教師受験資格が与えられ、そこから1年かけて正教師試験を受け、理事会の面接を受け、教団総会の承認を経て正教師の按手を授けられます。3年というのは最短で、それよりも長く時間を掛ける教師もいます。こういうプロセスを通して幾度も召命を吟味され、適性を審査される。まさに「性急に按手をしてはいけない」というパウロの勧めのように、按手の重みが確認されることで、教師や長老の務めの重みもまた確認されることになるのです。
 パウロはこのような按手の重みを十分知った上で「ほかの人に罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。」と教えます。按手を受けた者が罪を犯した場合、按手をもって任職した者もまた神の御前に責任を問われることになる。まことの責任重大です。他者の召命を吟味するというのはまことに恐れ多いことですが、しかし本人の思いと教会の判断が一致するというのは欠かせないプロセスです。そこを曖昧にしたことで後々問われる大きな責任があるのです。ですからここでの「自分を清く保て」との勧めは、個人としての倫理的なあり方というよりは、事柄の本質を洞察し、ふさわしく判断力するという教会に求められる霊的な識別力が期待されているのでしょう。

(2)キリスト者の倫理
 さて、ここで急に主題からはずれてテモテの健康問題に言及されます。23節。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、またたびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」。唐突に思えるこの話題の転換はいったいなぜなのでしょうか。おそらく22節最後の「自分を清く保て」との勧めを、テモテが個人的な倫理の教えと取り違えることのないようにとの補足説明と言われます。テモテが奉仕する当時のエペソ教会の中に根拠のない禁欲主義が入り込んでいたことをすでに見ましたが、パウロはテモテが「自分を清く保て」という勧めを肉体的禁欲と受けとめて、そうでなくても線の細い生真面目な彼が、ストレスで胃を痛めたり、たびたび体調を崩すまでになっていたりするにも関わらず、「水ばかり飲んで」いるような、律法主義的・禁欲的な生活に陥っていることにストップを掛けているのでしょう。そして、むしろ健康維持という基本的な事柄に配慮するようにと教えているのでしょう。
 ここに私たちはキリスト者の倫理、品性における大切なバランス感覚を教えられます。極端な禁欲主義と極端な放縦が溢れ、建て前と本音の二元化が当然とされる時代と社会にあって、それらの両極端を避けて生きていくキリスト者の生き方です。私はこのことを考える際の基準として、「神さまの御前に言い訳しないでいられるか」ということと「他人の躓きにならないか」ということを考えるようにしています。この二つのことで自分自身の行動を吟味することで与えられる、禁欲主義に陥らず、放縦に流されない聖霊による自由な生き方。それこそが自分を清く保つ積極的な生き方なのではないでしょうか。

(3)召命の吟味
 再び主題にかえって、それではなぜ長老の任職に際して慎重を期すことが必要であるかの理由が示されます。24節、25節。「ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません」。
 任職の按手の際に明らかにされていない事柄、それが明確にされるためには時間が必要とされる事柄があるということです。特に隠されたままの罪がやがて露わになるときのことを考えるならば、性急にならずに、しっかりとその人の召命を見極める時間を持つことが必要だということも理由なきことではないことがわかります。プロテスタント教会では早ければ5、6年で牧師や伝道者になることが可能です。単立教会などであれば正規の神学教育も求められないことがあり、もっと短いこともあり得る。一方、カトリック教会などでは修道の誓願を立ててから実際に司祭に叙階されるまでは少なくとも10年近い時間がかかります。繰り返し神の御前に自らの召命を吟味することが求められるからです。
 任職の按手をもって導かれる、召命の自己吟味の大切さを思います。自らの召命を考えるに当たって、徹底的にそれを試し、吟味し、鍛えていく必要を覚えたいと思います。

 

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.