テモテへの手紙一講解その15     2019/02/17
『神の家族に対して』

Iテモテ5:1-2

 今晩でテモテへの手紙第一4章を読み終えることとなります。パウロのテモテに対する牧会的な勧めの言葉を通して、キリスト・イエスの立派な奉仕者として召命に応えて生きる生き方の原則を、御言葉からともに学んでまいりましょう。

(1)兄弟姉妹たちへの接し方
 「年が若いからと言って軽く見られないように」、「ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい」、「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」、「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい」と、4章の終わりで御言葉を教えるという説教者の務めへの集中を語ったパウロは、5章に入ると神の家族である教会の一人一人に対して、それぞれに相応しく接していく牧会の務めの多様さを語っていきます。1節、2節。「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい」。
 教会は、神の家族としてあらゆる世代の人々がともに集う共同体です。中でも世代を超えた交わりがあるということは、教会の本質に関わるものと言えるでしょう。昨今の日本の教会の危機的な状況を表す言い方に「教会の高齢化」という言葉が使われます。教会の高齢化が進んでいる。このままでは教会が消滅してしまう。そういう使われ方をします。しかし私たちは、こういう言葉が教会の中で使われる時、その場にいる高齢の兄弟姉妹たちがどのように感じるか、ということをよく考える必要があるでしょう。年老いて教会の交わりの中に居ることが、何か教会の足を引っ張っているような、お荷物になっているような、そんな印象を与えてしまっているのではないかと思うのです。ずっと戦後の教会を担ってきた世代の人々が、教会の中で「高齢化が進んで、未来がない」という言葉しか聞こえてこないとすれば、それはまことに寂しいことと言わなければなりません。
 一方で若者たち中心の教会があります。音楽、映像、礼拝のスタイル、教会のあり方が洗練された印象で、さらに若者たちが集うようになります。若者たちへの宣教、次世代の育成は重要な課題です。同盟教団も青年宣教に力を入れ、この夏もフロンティア2019が開催されます。しかしよく青少年局長の西村先生が言われることに、若い世代への働き人は若い人にしか関われない人ではいけない。すべての世代に関わることのできる人が、若者への宣教に携わらなければならないとあり、それは本当に大事なことだと思うのです。
 パウロがここで若き伝道者テモテに伝えているのもそうしたことでしょう。年配の男性には父親に対するように、若い人には兄弟に対するように、年配の女性には母親に対するように、若い女性には姉妹に対するようにとある通りです。

(2)「勧める」という態度
 こうして、教会の多様な人々に対して、それぞれに相応しい接し方がありつつも、しかしここで共通しているのは「勧めなさい」との命令です。ここで「勧める」と訳されるのは、新約聖書でしばしば登場する「パラカレオー」という言葉で、「傍らに呼ぶ」という元々の意味から、「勧める」の他に「慰める・励ます・奨励する・促進する」などの意味をもっていること、それゆえにこの言葉は教会における「牧会」の務めの本質に関わる重要な言葉であることを、これまでにもしばしば申し上げてきました。
 つまりここでパウロはテモテに対し、年配の男性、女性、若い男性、女性たちに、それぞれ父親に、母親に、兄弟に、姉妹に寄り添うように、その傍らに立って勧め、励まし、慰めるようにと教えているのです。ここには先の13節で「聖書の朗読と勧めと教えに専念する」という御言葉の務めと、一人一人の魂に寄り添い、慰め、励ます牧会の務めの結びつきが明らかにされています。牧師の務めについてしばしば「説教と牧会」と言われます。それはそれで正しいのですが、しかし「と」でつなぎ合わされる両者の関係が重要です。それが「と」の前後で別個のものとして独立してしまってはならないでしょう。説教の務めと牧会の務めは別々のものではありません。説教壇に立っているだけでは人々の人生の姿を時として正しく見ることが難しく感じられる時があります。しかし御言葉を介さない人間関係の親密さや配慮だけの繋がりでは真の牧会とはなり得ません。御言葉の放つ光の中で一人一人の存在を見つめ、祈り、思い巡らし、そこで得た言葉をもって語りかけ、その語られた御言葉が、兄弟姉妹たちの具体的な日々の営みの中で実を結んでいくように勧め、励まし、慰め、時に誡めること。それが魂への真の配慮ということでしょう。

(3)神の家族に対して
 最後に「父親に対するように」、「兄弟に対するように」、「母親に対するように」、「姉妹に対するように」という時の「〜のように」との表現に注目しておきたいと思います。これは新約聖書の言葉で比較や比喩をあらわす「ホース」という、比較を表すものですが、時として単なる比較以上の意味合いを持つものでもあります。その最も顕著な例は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しない」との主のご命令でした。「自分自身のように」の「ように」です。このことから、パウロが教会の兄弟姉妹たちを家族になぞらえて語るのは、決して単なる比較ではないことが分かります。むしろ、まことに、真実に家族のようにして、いや真の家族以上に家族のようにして接すること、それが教会の交わりの一面なのではないでしょうか。
 教会の交わりの中に、年老いた者も若い者も、男性も女性も、健康な者も病の者も、強い者も弱い者も、社会の様々な属性を持つ人々がいる。しかしそれが地上の様々な繋がりや隔たりを超えて、まことに神の家族として主によって結び合わされている。それは時に地上と天上とをさえ結ぶ交わりなのです。
 家庭が壊れ、社会が壊れ、共同体が壊れていく時代のただ中にあって、神の家族としての教会のあり方もまた問われています。この私たちの交わりが、真の家族の交わりの姿を指し示す、そのような歩みをさせていただきたいと願います。

 

 



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