テモテへの手紙一講解その9  2018/12/09
『監督の務め』

Iテモテ3:1-7

 待降節第二主日の夕べ、こうして礼拝をもってこの日を締め括ることができる恵みを感謝します。今晩もテモテへの手紙第一に記された御言葉に聞いてまいります。

(1)教会に立てられた務め
 教会の12月は、クリスマスの時期と並行して来年度の準備が続く時期でもあります。今日も役員会で来年度の総会に向けた話し合いがなされました。来年度は役員の改選があります。教師の人事も扱われます。献身者を神学校に送り出します。教会にとって、主に召された教会の仕え人をどのように立てるのか、そのプロセス、基準、資格、適性などなど、いずれも大切なテーマです。実際に初代教会はどのようにして教会の仕え人を任命していったのか。それを知る貴重な証言が今日の御言葉によって明らかにされています。
 1節。「次のことばは真実です。『もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである』」。これは当時の教会ですでに行われていた按手の際の一節であるとされ、すでに紀元1世紀後半、教会において監督の職が確立していたことを表すものと言われます。「監督」という言葉には「管理する者・取り締まる者・見張る者・支配する者」等の意味があり、聖書の中では「長老」とほぼ同義に用いられています。今日では牧師、伝道師、長老という役割がこれに当たるものです。聖書はこの務めに就くことを「立派な働きを求めること」と言っています。それは神に仕え、神の福音に仕え、神の教会に仕えるという務めの重みのゆえのことでしょう。そこで実際問題として、2節以下でこの務めに立てられる人がどのような資質の持ち主であるべきかが語られていくのです。

(2)務めの資質
 教会における監督の職がどのようにすばらしく光栄なものであるかを記したパウロは、続いてその職務に求められる資質について語ります。2節から7節をお読みします。「ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもたちを従わせている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです」。
 一読してお分かりのように、大変厳しい基準、高い基準と言わなければなりません。この御言葉は、しばしば役員選挙の際に読まれたりしますが、「こんな基準を満たす人などいるだろうか」と思わず考えてしまう人が少なくないでしょう。役員選挙のある総会では、投票が住んで当選者が選ばれると、短い時間ですが牧師室に来ていただいて確認の時を持ちます。その際にほとんどの候補者の方が口にするのは「自分は相応しくない」という言葉です。確かにそうでしょう。私たちいずれも完璧な人はいないからです。しかし、その上で聖書が監督の職に求める資質として、このような高い基準を示すことの意味をも重く受け取らなくてはなりません。神に仕え、神の福音に仕え、神の教会に仕えるという光栄ある務めのゆえに、それに求められる資質もまた重く、高いものなのだということです。
 その上で私たちが確認しておきたいのは、この御言葉の前で相応しいのは「誰がこの務めに耐え得ようか」という御言葉であり、それでもなお神が召してくださった務めのゆえに、この務めに立つ者は、この務めの資質を目指して弛まず励んでいくのです。

(3)証しに生きる
 また、2節から7節にある15の資質のリストから教えられることは、前半の13と後半2つの質的な違いです。前者は自分自身の心構え・個人の資質に関する部分ですが、後者は他者との関わりについてです。言い換えれば、前者は自分の意識の中での事柄であるのに対し、後者は意識の外側の事柄でしょう。他者から見た信仰の成熟度、また信仰の評価に関することです。
 前者での強調点はさらにまとめれば、「健全な家庭生活」と言えるでしょう。教会を治めるという務めを、家庭を治める務めの延長上に位置づけており、家庭を治められなければ、神の教会を世話する(治める)ことは出来ないと断じるのです。監督の職にある者は、妻に対して、子どもに対して、そして神の家族に対して仕える者でなければなりません。
 これに対して後者は「他者との関わり」「健全な市民生活」と言えるでしょう。前者が自分の意識で変えられる事柄であるのに対して、ここでは他者の評価によって決定される事柄が記されているのです。その人の信仰の成熟度、この世における評価、それらは客観的な評価を必要とする事柄です。そのような意味で、私たちの常識やモラルが、一般の人々に対して劣るものであってはならないでしょう。むしろそれを越えて行くところの市民としてのあり方を示していくことが必要なのではないでしょうか。一人の人として生きる。一人の市民として生きる。一人の夫として、一人の妻として、一人の親として生きる。一人のキリスト者として生きることは、このような生に対する真面目さ、誠実さということに収斂していくものなのではないかと思うのです。

(4)監督の職に就きたいと思うなら
 こうして見てくると、監督の職など大変すぎて自分には無理だと思います。それでも最後に「監督の職に就きたいと思うなら」という表現に目を留めたいと思います。これは「手を伸ばす」という意味で、身を乗り出して獲得するようなニュアンスです。そんな人いるだろうかと思ったりもするのですが、しかし聖書は監督の職を願うこと立派な働きを求めることだと言う。働き人が少ない時代に、求められる資質は高く、しかし地上での報いは少なく、労苦の多い、24時間絶え間のない働きです。けれどもそれは立派な働きと呼ばれる。このような神の仕え人が続いて立てられるよう、祈り求めてまいりましょう。

 



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