テモテへの手紙一講解その8    2018/11/25
『信仰と愛と聖さ』

Iテモテ2:8-15

 朝拝と夕拝に出ると、不思議とそれぞれに聴いた御言葉が互いに共鳴するような経験をし、御言葉の恵みを一層深く味わうことができる。そんな祝福の経験をこれまで幾度か分かち合ってきました。しかし時々それと正反対、真逆のことが起こる。朝も夕もまことに難しく、なかなか素直に受け入れがたい。説教者も悩み、聞き手も困惑する、そんな時があります。まさに今日がその日でしょう。それでも主が今晩、朝のローマ書とともに聴くようにと与えてくださった御言葉から、主の御心を受け取っていきたいと思います。

(1)御言葉への問い
 テモテへの手紙の第一を一通り講解説教したことがあります。今から22年前の1996年の5月から1997年の3月まで、西大寺キリスト教会で過ごした最後の一年の夕拝で全25回で語った説教です。その時の説教原稿が手許に残っていて時々振り返るのですが、その時の自分としてできる限りの準備をして臨んだ説教で、今にしてみると当然様々な課題はあるのですが、それでもその時、確かに教会がその御言葉で生きていたことの大切な証しだと思っています。しかしその後の22年の間に、自分なりの聖書の読み方が深められたり、理解の仕方が変わってきたりしたこともあります。特に今日の箇所のかつての説教原稿を読み返してみると、今だったらこういう説教はしないなと思うものでした。明らかに腰が引けているというか、表面的というか、本来もっと考えなければならないはずの箇所なのに、そしてそのことに気づいているはずなのに、敢えて踏み込まず無難なところで、多少言い訳めいた言葉で繕った説教という印象を受けるのです。
 あらためて今晩与えられている御言葉を読むとき、真っ先に心に浮かぶのは、「パウロ先生、それは違うでしょ」という思いです。以前はどちらかというとパウロ先生について弁明するような説教だったのですが、今はむしろパウロに対する問いが出てくるのです。それは聖書を誤りのない神の言葉として信じることと何ら矛盾するものではないと思います。ここに記されるパウロの言葉に問いを抱く。ある意味で当然のことではないかと思います。この御言葉を読んで、何も問題を感じない、何の問いも浮かばないとしたら、その聖書の読み方こそが問われるのではないかとさえ思うのです。もちろんこれは、聖書を疑ってかかれとか、今の私たちの価値観に合わない箇所は読む必要がないなどということを意味してはいません。むしろ聖書が書かれた当時の歴史的、文化的、時代的な文脈をよく考慮して、当時の状況、そこに生きる人間の現実、それゆえの限界すらも認めて聖書の使信を受け取ることが必要なことでしょう。その意味で今日の箇所はまことに有益なところと言うことができると思います。
 
(2)きよい手を上げて、良い行いで
 まず今日の御言葉を読む上で、2章全体が礼拝のあり方、その中でも祈りについて語っているということを押さえたいと思います。礼拝におけるとりなしの祈りについて1節から7節で論じたパウロは、8節以降で礼拝者としての、祈り手としての男性のあり方、女性のあり方を勧めるのです。つまり男性一般、女性一般のあり方というよりも、礼拝者、祈り手としてのあり方が論じられているのです。私たちが神の御前に、礼拝者として、祈り手として進み出るとき、そこではこの神礼拝に固有なあり方があることは当然のことでしょう。私たちのなすべき礼拝、理に適った礼拝、ふさわしい礼拝のあり方があるのです。
 そのような文脈の中でパウロはまず男性信徒たちに言います。8節。「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい」。こうした表現から透けて見えてくるのは、当時の社会において、教会の中でもしばしば男性たちが「怒ったり言い争ったり」していたという事実です。恐らく若き伝道者テモテにとって、年長の男性信徒たちの間にこのようなトラブルが起こることが彼の胃腸を痛めつける大きな要因になっていたのではないかと思います。
 続いてパウロは女性信徒たちに言うのです。9節から12節。「同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい」。ここでパウロは女性たちに「慎み深く」、「良い行いで自分を飾れ」、「静かに学べ」と勧めます。当時のエペソは女神アルテミスを祀る偶像礼拝の町で、神殿娼婦など性的なサービスを生業として生活する女性たちが多くおりました。彼女たちは男性たちの目を引くために、ことさらに派手な出で立ちでアピールする事を身に着けていたようです。私はここを読みながら、以前と違った理解をするようになりました。かつてはそのような町の風潮に感化された女性たちが教会内にもいて、それに対してパウロが戒めているように読んでいましたが、今は、もしかするとそのような働きについていた女性たちの中から信仰に導かれて教会に集う人々が起こされていたのではないか。しかし男性たちに性的な対象で見られ続けて来た彼女たちに身に付いてしまった習慣や出で立ちを、パウロが「もうそのようなことをしなくてよいのだ。あなたは新しくなったのだから」と、その生活の転換を外面のところから促し始めているのではないかと思うようになったのです。

(3)信仰と愛と聖さ
 その上でパウロは言います。13節から15節。「アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます」。これだけ読むとパウロを弁護しようのない問題発言、女性蔑視発言とさえ聞こえます。しかしもし先ほどの私の読み方にある合理性があるとするならば、結婚以外の性的な搾取の対象とされ続けて来た女性たち、学ぶこともできず、自分の価値も尊厳も、性の営みの清さも、自分を守ることの大切さも知らないまま時には商品のように品定めされ、時には性奴隷のように扱われてきた女性たちに、パウロは「信仰と愛と聖さ」による新しい生き方を伝えようとしているのではないかと思うのです。女性たちに本当の祝福をこの礼拝で受け取って欲しい。その願いをパウロはテモテに託したのではないでしょうか。

 



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