テモテへの手紙一講解その4  2018/09/09
『罪人のかしら』

Iテモテ1:12-17

 夕拝では8月ではテモテへの手紙一を読み進めています。先週から教会の公用聖書が新改訳2017に変わりましたので、夕拝でも新しい聖書によって御言葉に聴いてまいります。

(1)過去の私、現在の私
 私たちはしばしば人生の途上で立ち止まり、自分の歩んで来た過去を振り返ることがあります。そして過去の自分と今の自分とを見つめながら、そこに現れた自分自身の人生と向き合う経験をさせられるものです。過去の私と現在の私との間に連続を見出すか、断絶を見出すか。一人一人の人生に現れる姿は様々ですが、しかし主イエス・キリストとの出会いを与えられ、救いに迎えられた私たちにとっては、多かれ少なかれそこに一つの「断切」が起こったのは事実でしょう。古い自分と訣別し、新しい自分に生き始めた。それが私たちが救われたということの一つの大事な姿です。
 聖書の中で、そんな過去と現在の断切の最も鮮やかで鋭い違いを見せるのは、何と言っても使徒パウロの姿でしょう。11節で「私は福音を委ねられた」と語ったパウロは、自分が使徒として召されたことを次のように語ります。12節。「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです」。こう読むと、少しでもパウロの生涯を知っている人には問いが浮かぶことでしょう。「キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださった」と言うけれど、それは事実と違うのではないかと。
 しかしここでパウロは、自分の過去と現在とを敢えて対比させながら語っているのです。13節。「私は以前には、神を冒?する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」。この12節と13節はもともとは切れ目のない一続きの文章で、「以前には、神を冒?する者、迫害する者、暴力をふるう者」であったのに、「キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださった」と、自分の身に起こったキリストの恵みの御業を証ししているのです。
 確かにパウロにとって、あのダマスコ途上での回心は劇的でした。しかしそれが劇的であるのは、それ以前の人生があまりに神から離れていたからに他なりません。クリスチャンたちを迫害してきた。その過去の傷の疼き、負債意識がどれほど強烈であったかは、ちょうど朝拝で学んでいるローマ書がハッキリと語るところです。しかしパウロはそれを福音宣教に向かう力へと変えて行きました。自らの力強さの秘訣、それは自らの知識や経験、神学的素養や行動力といったものではなく、いつも自らがそのようなところから救い出されてきた救いの原体験であり、このような者を救ってくださったばかりか、その者に「祝福に満ちた神の、栄光の福音」を委ねていてくださる主からの召命と信任なのです。
 パウロはこの主の自分に対する取り計らいを「あわれみを受けました」と語り、さらに14節でこう言うのです。「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました」。主の信任に応えて生きることで、主のあわれみと恵みが満ちあふれていったというのです。

(2)罪人のかしら
 パウロにとってこのような主からの恵みの充満は、それによる自分自身の自己理解の深まりに繋がるものでした。15節「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」。このように、主の恵みを知れば知るほどに、彼は自らの罪深さの中に深く沈殿していくのです。ここに彼の献身の深まりを見ることができるでしょう。
 自己認識の著しく低い人、それと反対に自己愛の強すぎる人など、私たちは自分自身とどう向き合い、自分自身をどう受け入れるかというのはなかなか難しいことです。パウロも、もし今日、臨床心理的な分析をするならば、相当に自己愛の強さと自己認識の低さとが同居しているような、なかなか強烈なパーソナリティの持ち主と思いますが、言い換えれば、それだけ彼の生涯、彼の人生、彼の存在そのものにとって主イエス・キリストの存在が決定的なものであることの現れでしょう。キリスト抜きには語ることのできない人生。それがパウロなのです。彼は誰よりも強く、自らをキリストの使徒であると主張します。しかしその反面、彼は自らをキリストの囚人であると言い、使徒の中でもっとも小さい者であると言い、さらには聖徒たちのうちで一番小さな私であると言い、そして極めつけに「罪人のかしら」であるとさえ言うのです。
 しかし、ここがパウロにとってのすべての原点であり出発点でありました。16節。「しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした」。こんな私が救われたのは、人々に対するキリストの救いの恵みの豊かさを示すためだと言うのです。そのような自己像においては高慢の罪の入り込む余地はありません。「罪深い私と恵み深い神」、この強烈なコントラストは、ただパウロをして主を賛美せしめ、祈りの高嶺へと引き上げるのです。
 教会の問題に悩み、自らの召命や献身、牧会者としての資質についても悩んだであろうテモテにとって、晩年を迎えた偉大な師パウロからこれほどの言葉を聞こうとは思いも寄らないことだったでしょう。自らの豊富な経験に基づいて、問題の対処法や具体的な手引きがなされるかと思いきや、パウロの口をついて出る言葉は、いかに自分がその務めにふさわしくない者であったか、しかし主はその者を召してくださるほどに、どんなにあわれみ深く恵み深いお方であるかということだったのです。
 救いの恵みを語るパウロの口調は祈りに導かれます。祈らずにはおれない、賛美せずにいられない。救いの恵みとはそのようなものです。そこには自らを云々する隙間はありません。ただただひたすらに栄光の神を賛美するのみです。17節。「どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン」。私たちも自分自身の過去と今を見つめるとき、そこから神への賛美が溢れ出てくる。そのような自己認識、神認識へと導かれてまいりたいと願います。

 



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