テモテへの手紙一講解その3    2018/08/19
『律法と福音』

Iテモテ1:6-11

 8月も半ばを過ぎ、後半に向かっています。残暑が続く日々ですが、今夕も御言葉によって養われ、力を得て、新しい週の歩みへと送り出されてまいりましょう。

(1)律法の目的
 「ある人たち」の説く「違った教え」、「果てしのない空想話と系図」によって混乱が生じていたエペソ教会と、それへの対応に粉骨砕身していた若き伝道者テモテ。彼らに対してパウロは、そのような穿った聖書の読み方は「論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではない」と言い、むしろ教会の目指すところは「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」であると確認しました。
 そして6節、7節で「ある人たちはこの目当てを失い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません」として、目標としての愛を見失った聖書の読み方が、いかに知識に富んだものであったとしても、見当違いなものとなってしまっているかを示すのでした。
 ちょうど今日の箇所は、私たちが今年の前半をかけて朝拝で学んで来た十戒論のまとめのようなところです。8節から10節。「しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを正しく知って用いるならば、良いものです。すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです」。
 「律法の教師でありたいと望みながら」、実のところ、律法のなんたるかを理解していない偽教師たちに対して、パウロは「しかし私たちは知っています」と明快に言い切ります。たいした自信だなと思うかも知れませんが、そこでのポイントは律法についての知識の量の問題でなく、そこに込められた神さまの心を受け取っているかということでしょう。
 パウロはここでまず「律法は、もし次のことを正しく知って用いるならば、良いものです」と律法の効用について宣べます。すでにローマ書やガラテヤ書によって、信仰は行いすなわち律法の要求を満たすことによってではなく、ただ神の恵みによって与えられる神の恵みの賜物であるという救いの教えは確立されていました。しかし、それはともするともはや律法は必要ないといって放縦な生活を招き入れる安易な律法廃棄論に結びつくという面もありました。そこでパウロはそのような誤解を避けつつ、律法に与えられた役割をもう一度締めそうとしているのです。

(2)律法の働き
 「律法は良いもの」という時、そこにはある方向性があります。確かに律法はもはや人々に救いを与えるための手段ではありません。むしろ最初から、律法を守って救われた人亜はいないのです。むしろ律法は、私たちに自らの努力や行いによっては神さまの基準を満たすことができない罪の現実を知らせ、救い主イエス・キリストのもとに私たちを導くためのものでした。これがガラテヤ書でパウロが律法を「キリストへと導く養育係」と呼んだ所以です。もう一度、9節、10節を読みます。「律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです」。ここに登場する「父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者」。これらはちょうど十戒の後半の戒めに当てはまるようなものです。律法を通して、私たちは具体的に自らの罪を示されるのです。
 
(3)律法と福音
 しかし、大切なことはそこからです。ただ罪が示されるだけ、それによって断罪されるだけで終わるのではありません。ここで重要なのは「律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人」そして最後の「健全な教えにそむく」者としての私たちの姿です。律法が私たちに教えるのは「不従順」、「不敬虔」、「健全な教えにそむく」、すなわち、主なる神さまに対する本来の姿から逸脱した自らの姿です。
 律法の目的とその働き。それは私たちに、この主なる神さまの御前での自らの姿を知らしめ、こうして神さまの御前に引き出すためなのです。それは繰り返すように、私たちを罪に定め、断罪し、裁きに服させるためではありません。むしろこのように神さまの前に罪ある者である私たちがこの罪の現実から解放される道は、ただイエス・キリストによる救い以外にはないということを教えるためなのです。
 これこそが、パウロの言う「健全な教え」であり、まさに福音そのものです。それでパウロは言うのです。11節。「祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです」。栄光の福音。それは偽教師たちの語るまやかしの思弁ではなく、イエス・キリストの十字架と復活のリアリティーそのものです。まことの信仰は決して頭の中だけの、思弁的な教えではありません。ことばが人となられたイエス・キリストは、まことの人として、私どもと同じ人としての生を全うされました。私たちの生きる上での悩みを知り、痛みを知り、弱さを知り、私たちの自分ではどうしようもできない罪を身代わりに背負って十字架にかかり、贖いを成し遂げてくださったのです。
 この十字架の主を仰ぐときに、私たちは赦され、癒やされ、生かされる。それが福音です。そしてこの福音のもとに導くために律法が与えられたのです。この恵みを今晩、今一度心に刻みたいと願います。

 



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