朝拝 2007/11/18
『神のかたちに』

創世記1:26-28

 秋から冬にかけて、朝の礼拝では創世記1章に記された御言葉から、この世界の創造と、そこにおける主なる神の恵み深いお働きについて教えられ続けています。そこで今朝は六日間にわたる神の創造のクライマックスともいうべき、人間の創造の出来事に目を向けて、神のかたちに創造された人間の存在の尊さについて教えられていきたいと思います。

(1)神の自由による創造(v.26)
 26節。「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。
 創世記1章はこの世界と、そして私たち人間ということを聖書がどのように見ているかという基本的な見方、世界観といってよいと思いますが、そういうものを示す極めて大切な御言葉です。ここまでは世界の成り立ちの姿を読み進めてきたわけですが、今朝は、主なる神の創造の御業のクライマックスとして人間の創造の姿が描き出されています。いわばここに人間が生き、存在することの根本的は意味づけが明らかにされていると言えるのです。「なぜ人は存在するのか」。この問いは人間が問う最も根源的な問いであり、また人間が人間であることを証しする最も確かな問いであると言えるでしょう。しかもこの問いの切実さ、また真実さは、それが「なぜ人は」という一般的な問いから、更に進んで特殊な問いとなることによってより一層鮮やかに示されるでしょう。この特殊な問いとはすなわち「なぜ私が生きているのか」という、私自身の生きる理由を問う問いであり、また「私は何のために生きるのか」という私自身の生きる目的を問う問いです。
 人が人であることの証しとして、私たちが意味を問い、目的を問う生き物であるということがあるでしょう。「何のために」ということの答えを求めて、あるいはその答えを目指して生きるところに、人間の生の崇高さや尊厳というものは生まれてくるのではないでしょうか。しかしその目的や理由はしばしば私たちの考える幸福や繁栄という価値観に縛られて、人間の尊厳や価値を幸福や繁栄の尺度によって計るということが起こってきます。そしてその尺度に適わない存在は、生きる意味や目的が失われていると判断されることすらあるのです。けれども、人の目的や価値は、本来そのような尺度によって計られるものではありません。人が人として生かしめられているという存在そのもののうちに、すでにその人の生きる目的や価値、尊厳は含み込まれているはずなのです。それが「神の創造」ということなのです。
これまで読み進めてきた世界の創造がそうであったのと同じように、特に人間の創造において明らかなのは、これが主なる神の愛の交わりの中から発せられた一つのアイデアであったということです。27節で神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」と仰せられたとあります。この「われわれ」という一人称複数の表現は、父・子・聖霊の三つにして一つなる神、いわゆる三位一体の神を表す表現として知られるところですが、この完全な愛の交わりを持っておられる生ける真の神が、その交わりを開いて、御自身との交わりの中に生きるべき存在としての人間を欲してくださったという事実。それは神にとっての必然や義務からでなく、全くの神の自由な喜びの御心の中で求められたことであったという事実。ここに私たちは、主なる神が私たち人間を御自身との交わりに生きるべき存在として、御自身の喜びの中に造り出してくださったという恵みの事実を知ることができるのであり、まさに人間は神の喜びの作品とさえということができるのです。

(2)神のかたちへの創造(v.27)
 27節。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」。先の26節とこの27節を読んですぐに気づく人間誕生の物語の大きな特徴は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」との神の御意志と、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」というその実現の描写です。そこでの中心は何と言っても「神のかたち」への創造ということでした。神のかたちについて、これを人間に与えられている知性、理性、宗教性として説明されることがありますが、まず全体として神が「われわれに似るように、われわれのかたちに」と言われた意味、すなわち父、子、聖霊の三位一体の神の似姿である「交わり」ということを考えておきたいと思うのです。三位一体の神によって創造された人間は、この神との交わりの中で生きるようにと形造られているのであって、その存在の根本的な有り様からいって、孤独に生きる存在ではなく、愛し合いされる交わりの中に、互いの存在を喜び合う関係の中に生きるべき存在なのです。三位一体の神の交わりの似姿として、人はこの神との交わりの中に生き、さらに人間同士の在り方においても他者との交わりの中に生きるようにと造られているのであって、その交わりの最小単位として神が置かれたのが「男と女」という姿なのでした。
ユダヤ教哲学者のマルチン・ブーバーという人が「我と汝」という書物の中で、私と他者との関係は「私とあなた」という関係か、「私とそれ」という関係のいずれかであろいうというようなことを述べています。この「私とあなた」と「私とそれ」との違いは、対象となるものが交換可能であるか否かということです。相手が交換可能なものである場合、それは「私とそれ」の関係であり、いわばそこには人格的な交わりは成り立ちません。けれども「私とあなた」の関係は、決して取り替えがきかない関係、かけがえのない尊い関係なのであって、それは愛と信頼に基づく人格的な交わりの関係です。ではこの「私とあなた」という関係の究極の姿は何でしょうか。それこそが私たちを愛し、私たちを生かし、私たちをあらしめ、そこに存在の尊さ、その理由、意味づけを与えていてくださる創造主にして三位一体なる神と私との関係であるということができるのです。古代の神学者アウグスティヌスは「あなたは私たちを御自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまでは、安らぎを得ることができないのです」と言いました。神のかたちに創造された人間は、この造り主の神のもとに立ち返り、この神のもとに憩うことによってのみ、本当の生きる目的を知り、そこに深い満足と喜び、生きることへの確かな勇気と力を得ることができるのです。

(3)神から与えられた使命(v.28)
 最後に28節を読みましょう。「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」。ここにはご自身のかたちに似せて人をお造りになられた神が私たち人間に委ねておられる大切な関わりが記されています。それは「祝福と使命」ということです。神の造られた世界の只中に、その最後に置かれた人は、いわば被造物の中の冠のような存在とされています。そして神から祝福された人間は、その祝福をもって神の使命に生きるようにと方向付けられているのです。人には神から委ねられた大切な働きがある。聖書はそれを「地を満たし、地を従え、生き物を支配する」という言葉で表現しました。このような産み、育て、耕し、治める人間の働きを後の教会は神が人間に与えた文化命令と言う言葉で表現するようになりました。この場合、大切なことは人間は神から委ねられてこれらの命令に服するのであって、自らが神になるのではないということです。聖書にはしばしば「しもべ」という言葉が出てきますが、これは主人からある一定の権限を委ねられて与ったものを正しく治め、運用する番頭さんのような役割です。主なる神は人間にこの世界を委ねられ、それらを神の栄光のために用いるという大切な使命が与えられているのです。
 今、祈祷会で学び続けていますウエストミンスター小教理問答がその第一問で「人の主な目的は何か」と問い、「人の主な目的は永遠に神を喜び、神の栄光をあらわすことである」と答える時、ここでは神を喜ぶことと、神の栄光のために生きることが、ちょうど神からの祝福と使命へのこだまのようにして鳴り響いていると言えるのです。今日多くの人は神を否定し、自らを神の位置へと祭り上げることによって己れ自身を神のようにしてしまいました。しかしその結果、確かな座標軸を見失った結果、人は自分のありのままの姿を見出すことができなくなってしまっています。神を見失うときに、人は自らの姿をも見失うことになったのです。ですから真の自分自身の姿を見出すためには、真の神の基に立ち返るほかに道はありません。宗教改革者ルターが語ったように、「神の御前」における己れの姿こそが、すべての出発点なのです。神との交わりを絶ち切ったところに人は立ち得ません。人は神なしには存在し得ないのであり、一切のことはこの神の御前でこそ意味ある営みとなり、神との交わりの中で私たちは生き、動き、働いていくのです。
 神のかたちに創造された人間は、神を喜び、神の栄光をあらわすことをもって、最も人間らしく生きることができる。このことをこの朝しっかりと心に刻みたいと思います。私たちの人生は神とともに生きる人生です。喜びの時にも、悩みの時にも、どんな時にも私たちの毎日は神とともにあるのです。また私たちの人生は神にあって生きる人生です。すべての営みはこの神にあってこそ確かな意味あるものとなるのであって、ここに私たちを支える確かな人生の土台があるのです。そして私たちの人生は神のために生きる人生です。もはや自分のために生きることはできない。私のために独り子イエス・キリストを遣わし、この主イエスの十字架の贖いによって私たちにいのちを得させてくださり、滅びの中から救い出してくださった神の大いなる御愛によって生かされる私たちは、この愛に動かされ、この愛に応えて生きていくのであって、私たちの人生はこの大きな方向付けを与えられて生きる神のための人生なのです。人が人であるために、神を神とする。このことの持つ意味をかみしめながら、またここから神とともに歩み始めたいと思います。

 

 



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