朝拝  2007/11/11
『一度にすべてでなく』

創世記1:14-25

この朝も引き続き創世記1章に記される創造の出来事から教えられてまいりたいと思います。今朝は神の創造の御業が六日間にわたってなされたということに注目し、そこに込められた主なる神の私たちの人生に対するお取り扱いの恵み深さについて教えられていきたいと思います。

(1)一度にすべてでなく
 創世記の始まりに記される世界の創造の御業は、六日間という時の刻みを追ってなされたと記されています。ここでの一日が今日の私たちの日の長さである24時間なのか、あるいは一定の時の長さを指すのか、それとも全くの神話的な表象なのか、創造の記述を巡っては古くからたくさんの聖書の学者たちが様々な議論を積み重ねてきました。しかし私たちがこの朝、特に目を向け心に留めておきたいのは、そのような日の長さ云々ということではなく、神の創造の御業が、今日の説教題に掲げましたように「一度にすべてではなかった」ということです。むしろ神は少しずつ少しずつ順序をおって御自身の御業をその始まりから完成へと導かれていったのでした。ここに私たちは創造の神の、造られたこの世界に対する特別のお心遣いを見ることができるのです。
 ここでこれまでの創造の御業を振り返っておきたいと思いますが、まず創造の第一日目に神は「光よ、あれ」と仰せられて光を創造され、二日目には大空を創造され、三日目には地と海、そこに生い茂る植物を創造されました。そして今日の14節から19節には創造の第四日目の様子が次のように記されます。「ついで神は、『光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。』と仰せられた。するとそのようになった。それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。こうして夕があり、朝があった。第四日」。さらに第五日目については20節から23節。「ついで神は、『水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。』と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。神はまた、それらを祝福して仰せられた。『生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。』こうして、夕があり、朝があった。第五日」。そして六日目が24節、25節。「ついで神は、『地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。』と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた」。さらに六日目はこれらの動物たちに続いてこの後、いよいよ人間の創造がなされるわけです。

(2)熟慮、慈しみ、忍耐
 このように主なる神の創造の御業が一度にすべてでなく、六日間という時の刻みの中に少しずつ少しずつなされていったということは、私たちにどのような真理を教えているのでしょうか。今日の御言葉は実に含蓄のある味わい深いところであって、多くのことを教えられるところですが、今朝は三つのことにまとめて考えておきたいと思います。その一つめは神の熟慮ということです。創造の神はこの世界を御自身の計り知れない御心の中にご計画され、深い慮りのうちにこれを作り上げていってくださったのでした。神は思いつきや気まぐれで、行き当たりばったりに、この世界をお造りになったのではない。がさつに、適当に、簡単に、安易にお造りになったのでもない。この世界は神の熟慮によって考え抜かれ、手間暇かけて造られたた神の作品であるということができるのです。
 二つめのことは神の慈しみということです。主なる神はこの世界を慈しみ深い御手をもって創造してくださいました。神は御自身のよき御心に従って、その一つ一つの生きとし生けるものたちのいのちの営みを支えるための必要な環境を用意し、それらが互いに支え合い、補い合って生きることのできる世界を見事に造り上げていってくださったのです。このことは特に六日目に創造された人間の姿に注目するときに、より鮮やかに示されてくるでしょう。次週この人間の創造については集中して学びたいと思いますが、先取りして一言だけ申し上げておくと、神のかたちに造られたいわば創造の冠としての人間のために、その人間が生きる世界を整えるために、神は慈しみの御手によってそのために必要なすべてのことがらを六日間にわたってこの地に備えてくださっていたということができるのです。今日は礼拝で子ども祝福式を行いました。教会に子どもたちが与えられることは大きな喜びですが、特にお腹に赤ちゃんを身ごもったお母さんは、そしてお父さんはその赤ちゃんの生まれ出てくる日を待ち望みながら、一つ一つ必要なものを準備していくでしょう。何の準備もなく漫然と日を過ごすと言うことはあり得ません。おむつを買ったり、肌着や産着、ベビーベッドや身の回りの細々とした物を一つ一つ丁寧に丁寧に準備し、赤ちゃんを迎える備えをするのです。そのように主なる神も人間がこの地に造り出される前に、その迎える準備をしてくださっていた。それがこの六日間にわたる創造の御業に込められた神の慈しみのお心なのではないでしょうか。
 そして三つ目は神の忍耐ということです。聖書が一日目、二日目、三日目、四日目と少しずつ、順序よく時を刻み、夕があり、朝があったとその時の巡りを記すということは、永遠にして無限な絶対者なる神が、時を超え、時を支配したもう永遠の神が、自ら時の中に自らを従わせてくださったことを意味しています。つまりそこでは一度にすべてでなく、一つずつ順を追って事を為すという「時を待つ心」、神の忍耐があるということなのです。このことは時間というもののもつ決定的な意味を私たちに教えるとともに、その時に服して生きるべき人間の生き方を私たちの人生態度として教えているのではないでしょうか。私たちは一方ではなかなか待つことのできない、忍耐のできないものであり、また他方では時の流れに抗おうとするものです。子どもはよく「早く大人になりたい」といって背伸びをしますが、大人になってくると「歳をとりたくない」といってその流れに抵抗しようとするのです。しかし神は時の中に忍耐して生きる人生態度を、御自身の創造の御業を通して教えておられます。あらゆるものごとの営みには時が必要であり、いたずらに無意味に浪費される時はないのだということを心に留めたいと思います。

(3)完成を仰ぎ見つつ
 以上のことがらを踏まえて、あらためて今日の御言葉から教えられたいことは、一度にすべてでなく、という神の創造の御業の有り様が、私たちの人生態度に大切なことを示していると言うことです。それは私たち自身の人生の歩みへの慰めと励ましとしての意味を持ち、そればかりでなく、今日ここで祝福を祈った子どもたちの成長を見守る眼差しにも繋がってくるものなのです。創造の神が御自身の造られる世界を熟慮の中で、慈しみの御手をもって、忍耐しながら造り上げていってくださるということは、その始めの時から主なる神の眼差しの中には、まだ何もなかった茫漠としたこの世界を通して、すでになるであろう姿、完成の姿が映し出されていたということなのです。つまり行き当たりばったり、その場その場の出たところ勝負で行き着いたところがこの世界であったというのではなく、神はその始めからなるであろう姿を仰ぎ見、それを待ち望みながら、一つ一つ心を込めてこの世界を造り上げていってくださったのです。
 私たちは今、この目の前にある姿でことがらを判断してしまいがちです。自分の姿もそうであり、また他人の姿もそうであることが多いでしょう。今の自分自身の姿を見て自信を失ったり、意気消沈したり、あるいは将来を悲観したり、絶望したり。先日の報道で今年も自殺者がすでに三万人を超えていると言っていました。毎日のように列車の人身事故のニュースがありますし、つい先日も池袋で投身自殺がありました。この異常ともいうべき現実を前に、私たち教会の使命は実に重い。人々に真のいのちの希望をお知らせすることは私たちの急務の課題であって、このことにおいて怠惰であってはならないと思わされます。自らの死を選び取る人の心はぎりぎりまで追いつめられています。けれどもそこでこの聖書の真理をお伝えしたいのです。今のこの状態がすべてではない。そのことで絶望してはならない。今の世の中は失敗が許されない社会であると思います。皆がぎりぎりの所で極度の緊張に耐えながら生きている。けれども何かの拍子に心がプツンと途切れ、ぽきりと折れてしまう。しかし「一度にすべてでなく」という真理は、私たちに試行錯誤を許す、失敗を許す、一度で正解を出せなくても、一度やってうまくいかなくても、またそこから取り組んでいける、やり直していける、今がすべてではない。神にあってここからまた新しく生き始めていくことができる。そういう私たちの人生への大きな慰めと励まし、そして何よりも神にあるまことの希望を私たちに与えていてくださるのです。
 この朝、子どもたちや若い人たちに申し上げたい。一度失敗してもそれで挫けてしまわないように。主にあってひたむきに歩んでいっていただきたい。親御さんたちにも申し上げたい。子どもたちを今の姿だけで判断しないでいただきたい。そこに神が見せてくださる「なるであろう姿」を見つめ、子どもたちの成長を見守る眼差しを忘れずにいていただきたい。働き盛りの壮年、婦人の皆さんにも申し上げたい。まことに激烈な社会の中にあって、それでも神にある心のゆとりを失わないでいただきたい。それほどに心削るほどに疲れ果ててしまわないように、主なる神を真の逃れ場としていただきたい。また年老いた方々にも申し上げたい。生きることの望みを失うことがないように。外なる人は衰えても、内なる人を日々新たにしてくださる神に望みを置いて、新しい人としてますます健やかに歩んでいっていただきたい。
 私たちを新しく作り変え続けていてくださる主がやがて新しい創造の時、被造物の完成をもたらしてくださる終わりの時を仰ぎ見、待ち望みながら、相変わらず行きつ戻りつ、右往左往しながら、試行錯誤を繰り返すような毎日であったとしても、それでも主に期待して、今日からの新しい一日一日をまたここから歩み出してまいりたいと思います。最後にローマ書8章18節から25節をお読みします。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます」。

 

 



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