朝拝  2007/10/07
『夕があり、朝がある』

創世記1:6-13

今朝は創世記1章に記される創造の出来事において、「夕があり、朝があった」と繰り返される御言葉を思い巡らしつつ、主なる神に導かれる私たちの人生の希望について教えられていきたいと思います。

(1)夕があり、朝がある
 まず今日の御言葉をもう一度お読みします。6節から13節。「ついで神は『大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。』と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。神はその大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。神は『天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現れよ。』と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。神が、『地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。』と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。こうして夕があり、朝があった。第三日」。
 創世記1章は神による天地の創造の様子を六日間に分けて記していきますが、そこで目に留まるのが一日ごとのしめくくりに記される「こうして夕があり、朝があった。第何日」という御言葉です。今朝お読みいただいたところでは8節、13節に出てきますが、先回の5節、そしてこの後の19節、23節、31節にも繰り返されます。ここで私たちが思い巡らしたいのが、この「夕があり、朝があった」という日の刻み方なのです。創造主なる神が御業が行われる一日を、創世記は夕から朝へと数えるのです。このことはいったい私たちに何を語りかけているのでしょうか。私たちにとっては朝に始まり、夕で終わるというのが日の数え方、時の刻み方です。朝とともに一日の営みを始め、夕べになるとその営みを終えて休みにつく。そのようにして私たちの地上の日々は続いていきます。夜はあらゆる営みが立ち止まる時、暗闇と静けさの時でありました。しかし「夕があり、朝があった」と記す創世記においては、朝で始まり夕で終わるという人間の営みとはちがった時の刻みがあるのです。それはすなわち神の導かれる時の刻み方と言えるでしょう。神が言葉をもって無から造り出された世界においては、夕暮れの時、夜の時はあらゆる営みが止まる時ではありません。むしろ夕闇の中で新しい日のための準備が整えられ、やがてそれらは朝の光のもとでそのよき姿を現すのです。そこでは夜の闇は良きものをその内に包み込み、朝の光のもとへと差し出す役割を担うものとされているのです。

(2)目覚めておられる神
 私たちの人生において、夕闇の時、夜の時とはしばしば孤独の時、不安の時を表します。人々は夜の闇よりも昼の明るさを求めます。今の社会では24時間夜通し営業は当たり前のようですし、夜でも街は煌々と明かりを灯していて、真っ暗な闇を経験することはむしろ難しいようです。私たちは暗闇を避け、夜の帳を遠ざけて生きようとしているのではないでしょうか。その一方で聖書は私たちにとっての夕闇の時、夜の時にどのような意味を与えているのでしょう。旧約聖書の詩篇の中からいくつかの御言葉を読んでおきたいと思います。詩篇3篇5節。「私は身を横たえて、眠る。私はまた目を覚ます。主がささえていてくださるから」。4篇8節。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」。ともすると不安に苛まれ孤独に陥りがちな夜の時、しかし信仰者は主なる神が支えていてくださるという恵みの事実の故に平安の中で眠りにつくことができるといいいます。しかしその一方で神を信じる者にとっても、時に涙の夜を過ごすことがあることも聖書は知っています。詩篇6篇6節。「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します」。
 そのような人生の闇の時、夜の時を過ごす中で、それでも私たちがやがて来る光に包まれた朝の時を待ち望むことができるのはなぜでしょうか。詩篇121篇1節から4節を読みましょう。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの道をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」。ここで詩人は私の助けはこの天地を造られた主なる神から来ると告白し、しかもその主なる神は「まどろむことなく、眠ることもない」お方であると言い表します。天地創造の時に「夕があり、朝があった」と時を刻まれた神は、そのようにして造られた世界を今も統べ治めながら、そこに生きる私たちの毎日の営み、そこには時に涙の夜があり、孤独の闇もあるそのような一日一日を「まどろむことなく、眠ることなく」見守り続け、支え続けていてくださるというのです。ちょうど夜中に怖い夢を見たり、昼間の悲しい出来事を思い出してしくしくと涙を流す幼子が、傍らに寄り添う母親のぬくもりや息づかいを感じ取って安心してまた眠りにつくように、私たちの主なる神は私たちの人生の夜の時も片時もまどろむことなく私たちの寄り添い、見守り続けてくださるお方なのです。

(3)明けない夜はなく
 私たちが生かされているこの世界も、今は深い闇の中にあると言わなければなりません。またお一人一人が今置かれている状況も闇の中に包まれているかもしれません。いつまでこの状況が続くのか、先行きの見えない暗闇の中で気持ちが潰えそうになることがある。暗闇の中にひとり取り残されたようないいようのない孤独感に苛まれることがある。しかしそこでこそ私たちは、「夕があり、朝があった」と創世記が語る時の刻みの中に私たちもまた生かされてあることを思い起こしておきたいと思うのです。夕から朝へ、闇から光へ。このような創世記の語り口は、創造の初めの世界が、すでに終わりの時の世界の救いを指さすようにして、その時を待ち望みながら生きる私たちに希望と慰めを与えます。神が造られ、統べ治められ、保たれる世界、神の定められた聖なる御意志に従って創造され、摂理の中で支えられる世界は決して闇で終わる世界ではない。そうではなくて、闇の中から光のもとに、たとて夕闇に包まれ、暗闇を深めたとしても、しかしやがては朝明けの光とともに新しく生き始める希望に満ちた世界なのです。
 私たちを照らす希望の光、それは十字架の死の闇の中から、三日目の朝、私たちの救いを成し遂げて朝明けの光の中によみがえられた主イエス・キリストです。このキリストがやがて再びおいでになり、来たらせてくださる終末の朝が明ける時、そこに映し出される世界は、罪と虚無の中から贖い出され、不安や恐れから解き放たれた神の光の世界です。この終わりの時の希望を預言者たちは確信を持って言い表しました。イザヤ書60章1節から3節。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」。さらにこの終わりの時の完成を語るヨハネ黙示録は究極の希望を次のように記しています。ヨハネ黙示録21章23節から25節。「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである」。さらに22章5節。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である」。
 「光よ、あれ」と仰せられて光を創造された主なる神は、その救いの完成の時にはもはやその光さえも必要としないほどに栄光に光り輝く御自身の栄光の輝きのもとに私たちを招き、永遠に私たちを照らし続けてくださる。この希望の朝を待ち望みながら、私たちもまた「夕があり、朝があった」という創世記の時の刻みに生かされていきたいと思います。主は私たちをいつまでも夜の闇の中に捨て置くことをなさらない。今が暗やみの時であっても、それは必ず朝明けの光とともに過ぎ去り、主の栄光の輝きが訪れる。この確信のもとにあって今日もまた主の御前にある一日を過ごし、夜を迎え、そしてまた主にあっての新しい朝を待ち望みながら、終わりの時を目指す私たちの地上の営みをまた明日からも続けてまいりたいと思います。
 詩篇30篇4節から6節。「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙がやどっても、朝明けには喜びの叫びがある」。

 

 



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