朝拝  2007/09/30
『光よ、あれ』

創世記1:1-5

 先週から創世記の第1章の御言葉を学び始めました。今朝は創造主なる神による創造の第一日目の姿を通して、神の光に照らされて存在するべく創造された世界を私たちが正しくその御心に従って受け取っていくために、そこに込められた主なる神の愛の御心を御言葉からしっかりと聞き取っていきたいと願います。

@茫漠とした地(v.1-2)
 1節。「初めに、神が天と地を創造した」。聖書は神の大いなる救いの御心とその実現を明らかにするために記された神の言葉ですが、この神の御心を明らかにするにあたり、世界の創造の出来事から語り始めました。しかもそれは単なる世界のはじまりの物語ということではなく、永遠に父・子・聖霊としていましたもう三位一体の神が、私たちに対する救いの御心の実現のためにはじめてくださったその世界のはじまり、つまり、神の創造による世界であったのでした。神が世界を造られた。この主張をしっかりと受けとめてはじめて私たちはこの後に続く旧新約聖書全体の世界を見渡して歩み始めていくことができるのであり、この点を決してゆるがせにしてはならないということをまず最初に申し上げておきたいと思います。その上で続く2節以降を見てまいりましょう。まず2節。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」。ここに描かれるのは神によって創造された最初の時の地の光景です。「地は形がなく、何もなかった」。実はこの言葉のもとになっているヘブライ語をどう日本語に翻訳するかということが、長い間、旧約聖書の学者たちの間で議論になってきました。それで日本語訳聖書にもいくつかの訳し方がなされています。例えば古い文語訳や口語訳聖書は「形無く、むなしく」と訳し、比較的新しい新共同訳聖書は「地は混沌であって」と訳しています。また私たちの用いている新改訳の第三版は「地は茫漠として何もなかった」という新しい訳語を当てはめました。さらに一番新しい日本語訳である岩波版の月本訳では「地は空漠として」と訳しています。これだけの訳があると言うこと自体が、この言葉の含む意味合いが豊かであることを表しているとも言えるのですが、ともかくここで「形がなく、何もなかった」というのは、まっさらな状態、まだそこに何も神によって造られたいのちが存在していない状態といっておいてよいだろうと思います。
 宗教改革者のカルヴァンは神によって造られたこの世界を「神の栄光の劇場」と呼びました。その視点から言うならば、この形なく何もない茫漠の姿は、いわば野外劇場が設営される前のまだ何もない広大な土地にたとえることができるかもしれません。先日、ある野外コンサートの様子を見ていたのですが、何もない原っぱに資材が運び込まれステージが組み上げられ、照明や音響の器材がセッティングされて巨大なセットが造り上げられるのを見て驚きました。まさに神の創造の最初の茫漠の地とは、単に何もない荒涼とした地というのではなく、むしろそこにこれからすばらしい神の御業が始まっていく栄光の舞台が整えられていくための地であり、「無の世界」ではなく、「これからあらしめられようとする世界」であるということができるのではないでしょうか。そしてその舞台に最後に置かれるのが神の創造の冠である人間の存在なのです。

A光よ、あれ(v.3-5)
 そこで3節から5節。「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日」。神があらしめようとされる世界にもたらされる最初のもの。神の栄光の舞台にむけて発せられる最初のもの。それは「光」でありました。そしてその光をもたらしたのは「光よ、あれ」という神の声、神の言葉であったと聖書は記します。代々の教会は、ここに表された神の創造の御業を「無からの創造」と「言葉による創造」と受け取りました。創造主なる神は、全く何の素材も原料も必要とされず、ただ御自身の全き力ある御言葉によって世界を創造された神です。神が「光よ。あれ」と仰せられると「光ができた」のです。神の生ける御声が発せられることによって、そこに神の言葉はかたちをとって表れるのです。今日、このような言葉の確かさが失われようとしています。本来言葉とは、そこにある現実を生み出させるための決断をともなう力ですが、現実に私たちの回りに漂う言葉は、威勢のよいかけ声だけで、全く実体をともなわないような虚しい言葉であったり、力んで大きな言葉を言えば言うほど、その実体が怪しくなるような不確かな言葉が溢れています。「有言実行」というモットーを口にする人が多いのですが、そもそも「不言実行」でいいはずのところにわざわざ「有言実行」などという言葉を作り出さなければならないほどに、言葉の持つ責任が危機に瀕している、そんな時代になっているのでしょう。しかし神の言葉は虚しく消えていく言葉ではありません。神が語られるとそれは現実となる。それが創世記1章が記す神の言葉の確かさです。神の言葉は無から有を生ぜしめる力であり、むなしく地に落ちるような不確かなものではなく、これ以上ないほどの確かな仕方で、何ら地上の素材を必要とせずに無から万物を創造せしめる生ける言葉なのです。
 この神の言葉によってこの世界にもたらされた光。それは神の栄光の劇場となる舞台に最初に光をもたらし、これから始まる創造の御業の全体を照らし出す光です。愛の神が私たちのために世界を創造されるにあたって抱かれたこの世界に対する期待と喜び、そして愛の御心を明るく映し出してくれる、そのようないのちと希望と喜びの光です。まだ何も描かれていない真っ白なカンバス、これから作り始められるまっさらな舞台。それを前にして芸術家は胸躍らせ、これから描き出し、作り出そうとする作品の様々なイメージをそこに映しだします。それは創作をする者にとっての何よりの喜び、至福の時ではないでしょうか。まさに主なる神は、この世界の創造の初めに、この世界に対しての大いなる期待、希望に満ちた喜びを抱いていてくださるのであり、その喜びをもって神がこの地に光をもたらしてくださったのです。

B神のもとにある地
最後に、今日の箇所との関わりで一つのことを考えておきたいと思います。イザヤ書45章18節、19節をお開きください。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。わたしは隠れた所、やみの地にある場所では語らなかった。ヤコブの子らに『むなしくわたしを尋ね求めよ。』とも言わなかった。私は主、正義を語り、公正を告げる者』」。ここでイザヤ書は神が「天地を創造した方」であり、「地を形造り」、「人の住みかにこれを形造られた方」と記しました。つまりここにははっきりと神によって造られた地は「人の住みか」として形造られたことが記されています。神が造られた地は当初「形がなく、何もない」茫漠とした状態でしたが、そこに神は最初に光を灯され、それから一つ一ついのちあるものたちを造り出すことによってその舞台を整えて行かれ、そして創造の六日目ににはついに創造の冠として、御自身のかたちに似せて造られた人間を置いてくださり、人を大いに祝福してくださったのです。さらにこのことを踏まえて2節をもう一度見る時に、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」という御言葉に注目したいのです。神学校時代の恩師の一人である清水武夫先生がこの箇所についてこのように述べておられます。「この世界が人の住みかとして形造られていく前に、すでに、神の霊がこの世界にご臨在してくださっておられたのです。そして、この神さまの御霊のご臨在の御許から発せられる、光よ。あれ。という御言葉によって、この世界に光があるようにされていきます。そのようにして、ご臨在の御許から発せられる御言葉によって、この世界は人の住みかとして形造られていきました。このように、天地創造の御業において、この地は人の住みかに形造られたのですが、これがそのように形造られる前に、神さまが御霊によってご臨在してくださいました。そして、この地を人の住みかに形造ってくださり、そこに、神のかたちにお造りになった人を住まわせてくださいました。それは、人をご自身との愛にあるいのちの交わりにあって生きるようにしてくださるためでした」。つまり茫漠とした地は何もないところではなく、神の臨在の場所であり、そこから神が御自身との交わりの中に私たち人間が生きるためにと創造してくださったのがこの世界なのであり、そのことをはっきりと私たちに知らしめるため、悟らしめるために、神の栄光の劇場を鮮やかに映し出す光をまずこの地に注ぎ掛けてくださったのです。イザヤ書において主なる神は「わたしが主である。ほかにはいない。わたしは隠れた所、やみの地にある場所では語らなかった」と仰せになりました。まさにこの世界は神の光に映し出されるときに私たち人間の目の前にはっきりと「わたしが主である、ほかにはいない」という神御自身の主張を明らかに示すのであって、しかもそれは「隠れたところ、やみの地にある場所」ではなく、「光よ、あれ」との言葉をもってもたらされた神の光の輝きのもとにあって私たちに示されていることがらなのです。
 私たちが神を信じて生きるかどうか。それは私たちの単なる心の在り方という内面のことにとどまりません。むしろ神を神として信じるときに、世界の存在の意味も、時間や歴史の意味も、そしてその時間と空間の中を今日、生きる私たち自身の存在の意味もまた明らかにされてくるのであって、神を創造の神として見つめるときに、私たちは世界をただしく見つめることができるのであり、何よりも神を神として信じ崇めて生きるときに、私たち人は真の意味で人として生きることを始めることができるのです。私たちが御子イエス・キリストを通して創造主なる神を知り、この方を信じ受け入れる時、私たちを取り囲むこの世界は、その創造の本来の輝きを放ち、まことに神の栄光の劇場として私たちを神の大いなる光の下に立たせるのであって、この神の光に照らされて生きることこそが、私たちにとってもっとも人間らしい、私らしい生き方なのです。


 



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