朝拝 2007/09/23
『終わりのはじまり』

創世記1:1

 この朝から旧約聖書の最初の書物である創世記の第1章を、数回に分けて読み進めていくことにいたします。すでに夕拝で数年前に創世記全50章を説教していますし、創世記1章は私たちの信仰のもっとも基礎となるべき所ですから、これまでにも折に触れて見てきたわけですが、改めてここで1章だけを読むことの意義を最初に申し上げて、御言葉の学びに入っていきたいと思います。

(1)はじめにあたって
 すでに予告しておりますように、この後、新たにヨハネの黙示録の学びを始めていきたいと願って祈り備えています。ヨハネの黙示録は聖書66巻の中でも特殊な書物であって、なかなか読んですぐ分かるというものではありません。またこれまでの教会の歴史の中で様々な立場から読まれ、中には著しく極端な読み方がされてきたという歴史も持っています。その特殊さというのは、黙示録が「世界の終わり」に言及する書物であることと無関係ではなかったでしょう。そこには人々の興味や関心を呼び起こす響きがありますし、興味本位に人々の恐怖心をあおり立てるような扱い方もありました。しかし私としてはヨハネ黙示録を、ヨハネが記した意図、伝えたかった意図にできるだけ近づき、それに沿って読んでいきたいと思うようになりました。そこでこの書物を私たちがどう読むのか、その読み方の視点をしっかりと据えるということがまず大切なことであると考えさせられ、そのためには一つの準備が必要であると思うに至ったわけです。それが、「終わりの事柄」を学ぶにあたって、まず「初めの事柄」をしっかりと受け取らなければならないということでした。そのようなわけで、「初めであり終わりである」方、「アルファでありオメガである方がもたらされる終わりの時の救いの完成、新天新地の成就の姿を遙かに仰ぎながら、同時にその新天新地の始まりの時の姿をまず見つめておきたいと願って、今日、ここに創世記1章1節の御言葉が私たちの前に開かれているのです。
 1節。「初めに、神が天と地を創造した」。まさしく聖書の初めの一句は、何の余計な説明を差し挟むこともせず、ただ当然のこととして「初めに、神が天と地を創造した」との圧倒的な出来事から、この大いなる神の救いの物語を語り始めるのです。ちょうど三ヶ月前の6月23日に天に召された遠藤嘉信先生の最後の著書となった創世記講解、『初めに、神が』というタイトルが付けられたこの本を手にしました。そこで遠藤先生がこの「初めに」という言葉について次のように記しておられます。「『初めに』それはあくまでも人間の側から観察した『初めに』であって、私たちの祝福のための『初めに』なのです。神は、この『初めに』の前に存在されました。そして、キリストもまた神とともに、この『初めに』の前に存在されました。・・・この『初めに』は、単なる『世界のことはじめ』のことではなく、神の人類に対する愛のみわざの始まりであり、そのご計画とご意思を具体的な行動に移される特別な時を意味しているのです」。つまり聖書はその語り出しからしてすでに、神の私たち人間に対する特別の愛の御心を表しているのであり、この世界は神の私たちに対する愛の御心の具体的なあらわれであって、神が私たちに対する永遠の愛の御心を実行に移されるその「初めに」神がなさったこと、それが世界の創造であったということになるのです。

(2)どこからどこへ、そして何のために
 このことを踏まえて、なおこの1節の御言葉を思い巡らす時に、そこに二つの大切な問いかけ、私たち人間にとって決して通り過ぎることのできない極めて重要な二つの問いかけと向き合うことになります。その一つは「人はどこから来て、どこへ行くのか」という問いであり、今一つは「人は何のために生きるのか」と言う問いです。「人はどこから来て、どこに行くのか」。これは人間の抱く根本的な問いです。問いの立て方は様々であったとしても、しかし誰しもが必ず心に抱くのはこの問いかけでしょう。あるいはそのことをもっと突き詰めて言うならば「私はどこから来て、どこへ行くのか」という、いわば自分のアイデンティティーを問う必然的な問いとなって表れてくるのです。しかし今日、多くの人々はこの自分自身のアイデンティティーを問う問いの前で危機に瀕していると言わなければならないのではないでしょうか。自分がどこから来て、どこへ行くのかを知ることなく、根無し草のようになってしまっており、ただその時々の時代の流れの中を漂流する浮き草のように、この世界のただ中を漂い続けているのではないでしょうか。そうして自分の目に映る小さな世界の中で、小さな物語の中に必死になって自分の人生の拠り所を探し求めているのではないでしょうか。しかし今ある自分の本当の姿を知るためには、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知らなければなりません。今の自分が立っている位置を正しく測定するためには、自分を視野を超えた大きな座標軸が必要なのです。そしてこの自分の人生を超えたところから、私自身の人生を見据える視点を与えてくれるのが聖書を通しての神の語りかけなのです。創世記1章1節が記す世界の初めの姿。それは単に昔々の古代人たちが想像力を豊かに働かせて思い描いたおとぎ話なのではなく、世界のはじまり、時間のはじまり、歴史のはじまり、神の救いの歴史のはじまりを描くことによって、今この時を生きる私たち人間がどこから来て、今どこにあり、そしてこれからどこへ行くのかをはっきりと指し示すために神ご自身が語られる神の確かな語りかけなのです。
 さらに今一つの問いとも向き合わなければなりません。それは「人は、そして私は何のために生きるのか」という問いです。私たちは誰一人、無意味な存在、無価値な存在ではありません。けれども現実には私たちは時に数字や業績によって測られ、機械のように扱われ、人格を否定され、そして労働力、生産力に置き換えられ、時代が時代であれば兵器のように扱われて虫けらのようにいのちを奪われていく存在であることに気づいています。一方ではそれがこの世界の現実であると自分に言い聞かせながら、けれどもその一方では私が私であることの拠り所や尊厳への求めは張り裂けんばかりとなり、私が私として生きていてよいのだという大いなる生の肯定を求める叫びが上がっています。ではどうやってその価値や尊厳を知ることができるのでしょうか。私たちはしばしばその価値や尊厳を後付けのものによって測ろうとします。けれども本当のところ、私が生きる目的も価値も、そのようなところからは見出すことができません。そうでなくすべてのものにその存在の意味を与え、価値を施しておられるのはただお一人、この天地万物を創造された神であられることを創世記1章1節ははっきりと示しているのです。創造の神がおられなければ、この世の何一つにも、そして私たち誰一人にも、その存在の意味や価値を与えるものはありません。けれども、聖書は神がこの世界を、そして人間を、つまりあなたを私を創造されたと語ります。しかもそれが神の私たちに対する愛の御心の具体的なあらわれであるということをはっきりと覚えておきたいと思うのです。

(3)終わりのはじまり
 聖書が世界の初めからすべてのことを語り始めると言うことは、そこにすでに世界の終わりが見つめられていることを意味しています。初めがあるところに、すでに終わりが見つめられている。つまり初めとは、終わりの始まりをも意味しているのです。かつて人間は、この世界がいつまでも続き、それはやがて発展と繁栄を続け、そしてついには人間の理想とする世界、ユートピアが出現することを夢見ていました。しかし現実はどうでしょうか。今日、世界の民族対立は激しさを増し、地球の温暖化に代表される環境の悪化は止まるところを知らず、自分たちの主張を暴力によって現そうとするテロが後を絶たず、人間たちの犯す犯罪は凶悪化の一途を辿っています。そのような現実を前にして、人間はもはやこの世界がいつまでも続く明るい未来を想像することの困難を覚えていると言えるでしょう。その一方で、世界滅亡を語るセンセーショナルな終末論が巷をにぎわし、人々をいたずらに不安と恐怖に煽り立ていることもまた現実の姿です。
 しかしそのような中で聖書が語る創造の出来事は、神によって創造されたこの世界が、やがては神の国の到来の時に完成し、成就し、全うされることを目指しています。その完成の姿を私たちに示すのがヨハネ黙示録なのだといえるのです。それゆえにこの「初め」神の愛の御心の初めから語り出されていく聖書が、その終わりにおいて悲壮感漂う恐怖と絶望の物語として締めくくられると言うことはあり得ません。むしろこの初めの神の愛から見つめられていく時に、そこで神の国の完成を見据えた希望がすでに終わりまで貫かれていく一筋の光として輝き出しているとさえ言えるのです。もちろん聖書全体がただ単に明るさ一辺倒で終わりまで貫かれていくと言うわけにはいきません。創世記からはじまって聖書全体を読み進める時に、私たちはむしろ、暗さと陰、悲惨さと絶望、混沌と虚無、そして真の救いを必要とする人間の現実を目の当たりにすることになります。それは当然私たち自身の姿でもあるのであって、この闇の根源にあるのは私たちに人間の罪の現実です。罪の現実を避けて、私たちは神の国の喜び、祝福、慰めにあずかることはできません。だからこそ私たちは神の御子イエス・キリストの救いを必要としているのです。
 ともかくも、この朝「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の初めの言葉の中に、終わりまで真っ直ぐに貫かれている神の賜る希望の光をしっかりと見つめておきたいと思います。神が創造されたのは「天」だけではなく、確かにこの「地」も、なのです。古代では天は神の御住まいを表す言葉であり、地はそこから流れ出てきた余分なもの、余り物という理解でした。しかし聖書ははっきりと神が造られたのは「天」であるばかりでなく「地」でもあったと記します。天だけでなく地をもまた確かに。目的を持って、意図を持って、神のよき御心に従って、永遠のご計画に従って。そのような世界を私たちは今神から与えられ、この世界に生かされているのです。それゆえに、神が造られた世界の意味とそこに生きる私たちの存在の目的、価値、尊厳をしっかりと受け取っておきたいと思います。聖書が記す「初め」は希望の光の中を終わりの時の神の国の完成を目指して一歩一歩と進んでいく「終わりのはじめの」のストーリーであって、私たちはこの神の大いなる希望の物語の中に巻き込まれながら、今日も、そして明日も歩んで行きたいと思います。

 



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