使徒信条講解28
『永遠の命を信ず』

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3章16−17節


(1)永遠の喜びの始まり
 これまでご一緒に取り組んできた使徒信条の学びも、いよいよ今回で最終回を迎えます。そこで今回は、使徒信条の最後にある「永遠の命を信ず」の告白を通して、私たちに約束されている希望についてご一緒に教えられたいと願っています。
 前回の「身体の甦り」に続いて、私たち主にある者たちに与えられている希望が告白されます。まずこの箇所についてハイデルベルク信仰問答の解説を見ておきましょう。「第58問:永遠の命という箇条はあなたにどのような慰めを与えますか。答:私が今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです」。ここで語られていることは、永遠の命の祝福が今すでに私たちのうちに始まっているということです。私たちは地上と天国、時間と永遠とを対立的に捕らえますが、聖書の教える永遠とは、現在の時から切り離されたものではなく、そこにはある連続性があるというのです。主イエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子どもとされた時から、すでに私たちはこの地上にあってすでに永遠の命を生き始めているのです。ヨハネ福音書が語ることは、この意味で未来に対する約束であると同時に現在の神の子どもたちにおける成就の言葉でもあるのです。
この主イエス・キリストにある新しい命は、洗礼を通して私たちのうちに生き始めます。パウロはローマ書6章で次のように言いました。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」(ローマ6:4-5)。私たちが今、主イエス・キリストの贖いを通して与えられている命、これが永遠の命の始まりなのです。ですから、前回の「身体の甦り」の時と同様に、私たちは永遠と言う事柄を徹頭徹尾、主イエス・キリストとの結びつきの中で捕らえなければなりません。キリストから離れた「永遠の命」は、それこそ霊魂不滅と同様に、福音の教えから切り離されたこの世の思弁となってしまうからです。私たちが永遠の命について語り、これを信じることができるのは、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)という主イエス御自身の存在にかかっているのです。

(2)永遠の命と我々の希望
 しかしその一方で永遠の命は私たちにとっての希望でもあります。ハイデルベルクが「この生涯の後に、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった完全な祝福」と語るとおりです。この私たちに与えられている永遠の命の「すでに」と「未だ」の関係をヨハネの手紙は次のように言いました。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似たものとなることが分かっています。なぜならその時、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(Iヨハネ3:2)。永遠の命の希望、それは私たちが神の御前にあって、キリストの似姿に変えられ、キリストをそのありのままの姿で見ることができるということです。栄光の身体にあずかって、神と共にある。そして永遠に神の臨在のもとに生きる者とされる。永遠に神をほめたたえながら、そのすべての祝福に与って、ますます鮮やかに神の栄光を現しながら生きていく。そのようなあり方です。あの創造の時にエデンの園で与えられた人間の使命が、その本来のかたちを取り戻し、さらにそれが更新されたかたちで実現していくのです。ですから永遠とは静的な世界ではなく、そこで人は神と共に生き、営みを続け、労働をし、神に仕える礼拝の生活をしていく。そのようなダイナミックな世界なのです。
 永遠の命、それは霊魂不滅や不老不死という「死なない」ことの教えではなく、まさしく生きられる命が私たちに与えられる点でそれは「生きる」ことの教えなのです。永遠の相の下で地上の生を生き、永遠の命の希望において来るべき神の国を生きる。それが私たちに与えられている永遠の命に相応しい生き方なのであって、この永遠の命の希望に生かされることが、そのまま私たちの信仰の営みなのです。この学びを締めくくるにあたってカルヴァンが「信仰の手引き」というカテキズムの使徒信条の講解の最後に記した「希望について」という一文を味わいたいと思います。
 「希望について。信仰が神の真実についての揺るがぬ確信であり、神の真実は私たちを欺きも裏切りもせず、虚しくなることも偽ることもできないとすれば、この確かさを固く心に抱く人たちは、同じ確信をもって神が成し遂げると約束されたことは必ず成就すると期待する。それらの約束は、この人たちの思いにとって真実でしかありえないのである。要するに希望とは、神から全く真実に約束されたと信仰が信じるところのものを、期待することに他ならない。このように、信仰は神が真実であると信じ、希望は神がその真実を時が来れば明らかにしたもうと期待する。信仰は神を私たちの父であると信じ、希望は神が私たちに対してつねにそのようなお方として振る舞いたもうと期待する。信仰は永遠の生命が私たちに与えられたと信じ、希望はそれがあらわにされる時を待つ。信仰は希望を支える基礎であり、希望は信仰を養い支える。すなわち誰でもまず神の約束を信じなければ、神からいかなることも期待し、希望するわけには行かないし、また他方、私たちの信仰の弱さは、疲れ衰えることが無いために忍耐の希望と期待とで支え保たれなければならない」。
 この信仰に生かされて、私たちもまた希望の中に永遠の命の祝福にあずかり、やがて天の御国において主の御顔を仰ぐものでありたいと願います。そして最後に、この希望の中で使徒信条に言い表された父なる神、子なる神、聖霊なる神に対する信仰を、教会の信仰として、そしてまた私自身の信仰として「アーメン」との言葉をもって締めくくりたいと思います。私はこの神を信じ、この希望を信じ、この神にあって世界を喜び、そして暗闇の中にあっても神の国を期待し、待ち望むのであります。アーメン。




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