使徒信条講解27
『身体の甦りを信ず』

「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」Iコリント15章42−44節


(1)キリストの未来と我々の未来
 いよいよ使徒信条の学びも締めくくりに近づいて来ました。今回は私たちにとっての希望の告白とも言える「身体の甦り」について学んでおきたいと思います。
 前回の「罪の赦しを信ず」の部分で、罪の赦しと身体の甦りは、私たちの現在と未来とに関わる告白であることを学びました。従って今回取り上げる「身体の甦り」の告白は私たちの未来、あるいは私たちの希望に結びつく箇所ですが、しかしこのことは、すでに学んだ信条の第二項の主イエス・キリストについての告白の中の「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」というキリストの未来に関する告白と深く結びついています。つまり私たちが身体の甦りの希望を信じ、告白することが出来るのは、それに先立つキリストの十字架と復活、昇天、着座、そして再臨の希望があるからなのであって、私たちの未来はキリストの未来において初めて実現可能となり、私たちの復活の希望は、キリストの復活の事実に基づいて初めて真の意味での希望となるのです。
 この使徒信条の持つ基本的な理解が重要です。私たちは主イエス・キリストの復活から離れて、自らの復活について語ることはできませんし、主イエス・キリストの再臨から離れて、自らの永遠のいのちを語ることも出来ません。キリストから切り離された永遠への問いは、すぐさま異教的な装いを取り始めるのであって、聖書の信仰から逸脱していくことになるのです。すなわちそれは「霊魂不滅」という考え方です。

(2)霊魂の不滅か、死者の復活か
 教会の復活信仰の中に、「霊魂の不滅」という聖書にはなく、むしろギリシャ哲学の、特にプラトンに代表される哲学思想の影響と、また霊肉の二元論に基づいたグノーシス宗教の異教的な考え方が混入していることを指摘した書物があります。フランスの新約学者であるオスカー・クルマンの著した『霊魂の不滅か、死者の復活か』という書物です。これは小さなパンフレットのような書物ですが、そこで指摘されていることは実に重要なことなのです。クルマンは次のように指摘します。「新約聖書における死と永遠の生命とが、いつもキリストの出来事と結びついていることを認めるなら、その時明らかになることは、最初のキリスト者たちにとって、霊魂は、本質的に不滅ではなくて、むしろイエス・キリストの復活を媒介として、またキリストを信じる信仰を媒介としてのみ、そうなるということである。また明らかになることは、死は本質的に友ではなくて、むしろその『とげ』、その力が、キリストの死において、死に対するイエスの勝利を媒介としてのみ取り去られるということである。そして、最後に明らかになることは、すでに達成された復活は、完成の状態ではないということである。というのは、からだもまた、よみがえらせられるまでは完成は未来に残されているからである。そのことは『最後の日』まで起こらないのである」。
 プラトンに代表されるギリシャの霊魂不滅の思想は、プラトンの先生であったソクラテスの死の姿に明らかなように、死を美化しました。肉体は霊を閉じ込める牢獄のような者で、死はこの朽ち行く肉の牢獄から霊を解放させるものとして受け取られたのです。そして永遠に死なない霊魂の不滅が人の目指すべきものとなりました。この思想がキリスト教信仰の中に影響しているのではないかとクルマンは言うのです。しかし聖書は霊魂の不滅を教えません。聖書においては人が『死なない』ことが問題なのではなく『新しい創造において生きる』ことが問題とされているのです。しかもそれは霊魂において生きるだけではなく、復活において栄化されたこの『身体』において生きるということなのです。

(3)「身体」の甦りと希望
 このことは霊を善とし、肉体を悪とするグノーシス的二元論を克服する信仰です。使徒信条がここで「身体の甦り」と言う時の「身体」は直訳すれば「肉」という言葉です。実に即物的な言葉です。しかし敢えて使徒信条がこの言葉を用いて身体の甦りを告白するのは、まさにこの身体、この肉体が甦るのだという信仰を明言したいからなのでした。ここにおいて終わりの日の希望は「創造」と「再創造」という二つの視点で捉えられることになるのです。やがて後の日に私たちに与えられる復活の身体は、まさしく身体としての被造物性を帯びているのであって、そこではこの被造物としての現実性は否定されたり、退けられたりすべきものではないのです。
 このことを、オランダの神学者ファン・ルーラーの解説をもって最後に確認しておきたいと思います。「肉体の復活についてのこの条項が持っている大きな価値は、キリスト教的希望は創造された現実の何ものも失わないという点にあります。私たちは、私たちについての思い出が私たちの親族や友人たちのもとに、あるいは神の御許に辛うじて残るということで満足することは出来ません。私たちはまた、私たちが私たちの霊魂や人格存在の不死性あるいは私たちの神関係の不死性の力によって精神的にさらに存続するとか、ましてや私たちが私たちの子どもの中にさらに生き続けるといったことに満足することは出来ません。イエス・キリストの復活を通して、全体として、人格的に、また私たちの身体をもって、生命の希望のもとに動かされています。それゆえ私たちはあらゆる時代のキリスト者たちとともに、力を込めて肉体の復活を告白するのです。この信仰箇条は、それを可能な限り著しく言い表しています。多くの神学者たちはそれがあまりに物質主義的に響きすぎると思っています。むしろ彼らは死人の復活ないしは人間の復活について好んで語りたいのです。しかしこれは私にはあまりにも繊細すぎるように思われます。というのは、ここでは明らかに被造性としての私たちの身体性に対する完全な然りが言われるべきだからです。しかもそれ以上のことがあります。そうです。その際重要なのはただ単に魂と体だけではありません。そうでなく、私が私である全体性が重要です。私は何でしょうか。私は充満した時間の一部でもあります。私の全生涯の時間とともに、私がここにあったし、また現にある、そのすべてとともに私は起き上がります。しかしまた、それらの中にあったあらゆる堕落から私は解放されます。このことが私たちの復活節の希望をいよいよ大きくし、また理解を越えたものにするのです」。
 私たちも肉体を否定し、霊魂の不滅を信じるのではなく、キリストにあって死に、キリストにあって生かされる新しい創造の身体に与ることの希望とともに、「身体の甦りを信ず」との告白を確信をもって言い表すものでありたいと願います。




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