使徒信条講解23
『聖なる教会を信ず』

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」エペソ5章25−27節


(1)教会を信ず
 使徒信条は三位一体の第三位格なる聖霊についての告白に続いて、「聖なる公同の教会を信ず」とすぐさま教会への告白へと繋がって行きます。そしてこれ以降、「聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり」についての告白が続くのですが、まず最初にこの告白の形について考えておきたいと思います。
 使徒信条はここまでのところで父なる神を信ず、御子イエス・キリストを信ず、聖霊を信ず」と三位一体の神への信仰を告白してきました。けれども今日の箇所以下は、それら三位一体の神への告白とまったく同等の意味で「〜を信ず」と告白することはできない箇所でもあるのです。「神を信ずる」ことと同じ意味で「教会を信じる」ということはできません。そもそも神を信じる者たちの群れが教会なのであって、その教会自体が神格化されることはあり得ないことだからです。このように三位一体の神への告白と、それ以下の告白を区別することは古代から行われてきました。特に使徒信条のテキストは東方教会と西方教会とでそれぞれギリシャ語本文、ラテン語本文が伝えられてきましたが、ラテン語本文では父、子、聖霊については「〜を信ず」(クレドー・イン)となっているのに対し、教会を信ずについては、単に「〜を信ず」(クレドー)となっているのです。この「イン」の有無の違いはギリシャ語本文には表れないことなので、この言葉の有無だけを強調して解釈することは出来ませんが、しかしだからといってこの有無を全く無視することもできないと思うのです。
 このような議論をふまえて「われは聖なる公同の教会を信ず」との告白は、様々な解釈の可能性を示して来ました。たとえばこれらは第三項の展開、すなわち聖霊の御業についての告白であるとの理解や、第一項から第三項までの全体にかかる告白であるとの理解、あるいは使徒信条の第四項としての告白であるとする理解も成り立つのです。いずれにしてもこの教会についての告白は、三位一体の神を信じ告白する教会の中で形成され定式化されていったと言えるでしょう。つまりここには教会が自らを三位一体の神の御前でどのようにとらえ、認識し、理解しているかといういわば教会の自己理解があらわされているのだと言えるのです。

(2)教会の属性としての聖性
 そこで「聖なる公同の教会を信ず」という告白について考えたいと思います。ここに出てくるのは教会の属性についての告白ですが、これをさらに展開して言い表したのが、しばしばご紹介するニカイア・コンスタンティノポリス信条です。そこでは教会について「われらは唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信ず」と言われています。使徒信条の「聖なる、公同の」に「唯一の、使徒的」という言葉が加えられたのです。
 今回はこのうちの教会の「聖性」について考えておきたいと思います。冒頭のエペソ書の御言葉は直接的には結婚の奥義を語るところですが、パウロは夫と妻の関係をキリストと教会の類比と捉えています。そしてキリストの十字架の贖いの目的を「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身でしみやしわやそのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」と語るのです。ここで言い表されているのは、贖われた地上の教会の終末における完成の姿と言えるでしょう。教会が自らの力で聖となるのではありません。地上の教会の現実の姿は、「聖なる教会」と呼ばれるにはあまりにも弱く、欠け多く、傷を負ったものです。しかし旧約における聖別の概念が「神によって取り分けられること」にあったように、教会もまたかしらなるキリストによって聖とされるがゆえに「聖なるもの」と呼ばれ得る存在となるのです。
 ではこの教会の聖の根拠はどこにあるのか。それはすでに申し上げたように教会の頭なるキリストが聖であられること以外にはありません。パウロがコリント書で次のように語っている通りです。「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」(Iコリント1:30)。キリストの贖いによって、キリストご自身の聖さが私たちのものとされ、それによって教会もまたキリストの聖にあずかって聖なるものとされる。ここに教会の聖なることの根拠があるのです。それゆえに私たちもこのキリストの聖さにあずかって、キリストのからだとしての聖さ、その肢々としての聖さを追い求めていくのです。宗教改革の教会は、その後の時代の中で次第に教理偏重の形骸化した信仰に陥っていきました。そのような中で、ピューリタンと呼ばれる信仰者の一群が生まれてきました。彼らの合い言葉は「正しい教理」(orthodoxa)と「正しい実践」(orthopraxis)ということでした。正統的信仰と正統的実践が相まってはじめて教会の聖さは証しされるのです。私たちもここから始まるこの週の歩み、この月の歩みにおいて、聖なる教会として、またその群れに連なる聖徒の一人として信仰の実践に進むものでありたいと願います。




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