使徒信条講解15
『主の葬り』

「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」ヨハネ19章38−42節


(1)主イエスの葬りの現実
使徒信条はキリストの十字架の苦難を語るに当たり、「死なれた」だけでなく「葬られ」もしたと告白します。主イエスの葬りについて福音書は実に簡潔に記しますが、しかし十字架と復活の間に十字架から取り下ろされた主イエスの体が布に巻かれて墓の中に葬られた三日間があったことの意味は極めて大きいと言わなければなりません。
 主イエスの死の現実は、墓の中に葬られたことによってさらに動かしがたい事実として私たちの前に示されています。主の御体は確かに十字架上で息絶えて、その日のうちに主の弟子であることを隠していたアリマタヤのヨセフと、あのヨハネ3章に出てくる夕闇の求道者ニコデモによって十字架から取り下ろされ、墓に葬られたのです。通常、十字架刑ではその日のうちに絶命することは極めて異例なことでした。致命傷を与えられないままに放置される残酷さで知られたこの刑においては、刑の執行から少なくとも二、三日、長い場合には一週間近い期間、もだえ苦しまなければならなかったのです。ところが主イエスの場合は、執行者側が驚くほどの異例の早さで、すなわち十字架刑執行の当日に息絶えられたのでした。ですからその死を確かめるために、ローマ兵士によって脇腹を槍でさされることすらなされたのです。
 そうまでして主イエスの死の確かさは人々の面前で証しされなければならなかったのです。そしてそれはそのまま、そうまでしての主イエスの贖いの確かさの証しでもあるのでした。墓の中に葬られる姿を人々の前にさらすというこの上ない明らかな仕方で、主イエスは御自身の死の確かさとそれによって勝ち取ってくださった贖いの確かさを御自身の身をもって証ししてくださったのです。

(2)主イエスの葬りの意味
 このようにして主イエスは私たちのために死なれ、墓の中に葬られたという事実。この中に私たちは主イエス・キリストのへりくだりの極みのお姿を見るのです。ピリピ書2章にはあの有名なキリストのへりくだりについて歌う「キリスト賛歌」が記されていますが、それによれば神が人となられたということ自体が実に驚くべきほどのへりくだりの姿でありました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2:6-7)とある通りです。しかし主は単にその事実に留まることをよしとはなさらず、「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(同2:8)と記されるように、人の最も悲惨な死である十字架の死にまで御自身を従わせ、そしてついには墓の中にまで下られたのです。
 組織神学でキリスト論を学ぶに当たって、「二状態三職論」という言葉が用いられることがあります。三職論というのは、厳密には三重の職務という意味ですが、キリストが贖い主として担われる職務は「預言者」「祭司」「王」の職務であることを意味しています。そして前半の二状態というのは、贖いの仲保者キリストの「高い状態」と「低い状態」という意味が込められています。ここで言う高い、低いは決して空間的なことを意味しているのではありませんが、しかし高い状態というのは天における神の御子としての状態、低い状態というのは、律法の呪いの元に服して十字架に死なれた状態ということができるでしょう。そのような視点で考えるならば、キリストの葬りとはまさしくこのキリストの低き状態の極みであるといえるのです。神の御子が贖いの仲保者として私たちの救いのために、ご自分の状態をこの葬りという低き次元にまでおとしめてくださった。そしてその後のことは復活論で学ぶところですが、その低きの極みにまで下られた主イエスを父なる神は高く挙げてくださったのです。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリピ2:9-11)とある通りです。そしていずれの日には、この挙げられたキリストが再び私たちのところに来られて、このキリストの故に私たちもまた父なる神のもとへと携え挙げられることができるのです。
 キリストの謙遜を私たちはこの墓の中に葬られたお姿の中にしっかりと見据えつつ、今は挙げられて天にある主と、その主の再び来たりたもうその日を待ち望みつつ、心を高く挙げて、主を待ち望みつつ謙遜に歩む者でありたいと願います。




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