使徒信条講解14
『主イエスの死』
    
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5章6−8節

(1)主イエスの死の現実
主イエスは死なれた。使徒信条はこの事実をはっきりと告白します。神の御子であり、我らの救いの主であるイエス・キリストが死なれたと誇張も隠匿もなく明確に言い切っています。しかも苦しみを受け、十字架につけられただけでなく、呪いの木であるあの十字架の上で確かに死なれたのだ、というのです。
 多くの異教宗教はその始祖や教祖の死の事実をあからさまに示そうとはしません。むしろその死をぼやかして曖昧にし、あるいは神秘的なベールに包み、あるいはその死をもって人間の神格化の材料にするのです。そのようにして教祖のカリスマ性を何とか持続させなければ、所詮一代限りの宗教で終わってしまうと言う思いがあるからではないでしょうか。しかし聖書の福音は、イエスの死の事実をそのまま実に率直に私たちの前に示しています。主イエスは確かに死なれたのだというのです。教祖が死んでしまったら元も子もないような、人間の手によって作り上げられた宗教であれば恐らくあり得ないような仕方で、聖書は主イエスの死の歴然とした事実を記し、使徒信条もそのようにして主は死なれたと告白するのです。
 なぜ聖書はそのようにして主の死の現実を告げるのでしょうか。そこに大きく二つの意味を認めることができるでしょう。一つは主イエスの死は偽りや幻想であってはなく、確かに現実でなければならなかったからです。そうでなければ私たちの贖いはなかったことになり、キリスト教信仰そのものがそのよって立つ基盤を失うことになるでしょう。そしていま一つはその死が現実であったことの上に立って初めて、主イエスの死の意味が明らかにされるからなのです。第一の点について、古くから様々なキリスト教に敵対する人々や異端的な教えを奉じる人々は、主イエスの死の現実を認めようとしませんでした。主は死を経験せず直ちに天に昇られたのだとか、主の死は現実においてではなく意味においての死であるとか、あるいは主は単に仮死状態に陥っただけとか。しかし聖書は一貫して主イエスの死の現実を伝えているのです。

(2)主イエスの死の意味
そこで第二の点として、主イエスの死にはどのような意味が込められていたのでしょうか。さらにこれを二つの意味でとらえておきたいと思います。一つは主イエスの死は罪の刑罰としての死であったということです。父なる神はあの十字架の上で、私たち人間の神への背反に対する裁きとして、死を刑罰として下されました。しかしそこで重要なのはその裁きとしての死が私たちの上にではなく、御子イエス・キリストの上に下されたという事実です。父なる神が御子イエスの上に裁きとしての死を下された。これが主イエスの味わわれた苦難の真の姿なのであって、十字架の苦しみは父なる神による裁きとしての死に主イエスが服従なさった点にあるのです。確かに十字架にかけられたことの肉体的・精神的な痛みもあったでしょう。鞭で打たれた痛み、唾をかけられた屈辱、茨の冠や手足の釘の極限的な苦しみ。しかし敢えて言うならば、主イエスの死の意味が単にそのような肉体的・精神的な苦しみの行き着く先の事柄であるとするならば、私たちもそれを追体験しようと思えばできないことではないのです。
 けれども主イエスの味わってくださった苦しみは、そのような私たちが追体験しようと思えばできるといったような次元の事柄ではありません。それは決して私たちが追体験することのできない、神の御子でなければ味わうことのできない苦しみ、三位一体の完全な愛の交わりの中におられた御子が御父によって捨てられるという、ただキリストしか味わうことのない苦しみであったのです。そしてこのイエス・キリストの死が私たちの罪の代償であったからこそ、このお方によって私たちの罪は赦され、私たちは贖われたのであります。まさしくルターが「イエス・キリストだけがまことの死を死なれたお方である」と言った通りです。
 さらに第二の意味として覚えたいのは、主イエスの死が罪の力に対する完全なる勝利としての死であったということです。パウロはローマ書6章で次のように言いました。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです」(ローマ6:10)。主は十字架によって私たちの罪を贖ってくださったと同時に、私たちに対して下されるはずであった裁きとしての死そのものに対して御自身の死によってこれに打ち勝ち、その力を無効にし、死に対する死亡宣告を下されたのです。ゆえに、もはや死は私たちの恐れの対象ではなく、まして敵対する存在ではありません。罪の力としての死はすでに主イエスの死によって死んだのです。死に対して死んでくださった主イエス。それによって私たちは真に生きる者とされる。ここにおいて私たちがこの地上で生きる事の意味もまた明らかにされるでしょう。私たちは不安と諦めにおいての生を生きるのではなく、死に対してしっかりと正面から向き合う勇気と、死を超えて生きる事への慰めと希望を抱いて生きることができるのであり、そのようにして私たちは死の不安や恐れ、絶望に押しつぶされることなく、これを超えてなお御国を目指し、天の故郷を憧れながら、心を高く挙げて、しかもこの地上をしっかりと踏みしめながらこの旅路を歩むことができるのです。なぜならすでに主イエスがその死をもって死に打ち勝ってくださったのですから。




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