使徒信条講解13
『十字架につけられ』

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」ガラテヤ3章13節


(1)ローマ極刑としての十字架
今回は主イエス・キリストの苦難の御生涯のクライマックスである「十字架につけられ」との告白を通して、十字架によって成し遂げられた私たちの罪のための贖いの御業について学んでおきたいと思います。十字架刑はローマの刑罰の中でも最も過酷な極刑でありましたが、その由来はペルシャ帝国にまでさかのぼり、のちにカルタゴを経てローマに至ったと言われます。この刑罰を受けるのは強盗や政治的扇動者などで、過酷であると同時に最も恥ずべき屈辱的な刑ともされていたのです。十字架刑の過酷さは、何と言っても致命傷を与えられないまま放置され、時には猛禽や獣たちの餌食にされながら死んでいくというその悲惨で残酷な有様において知られていましたが、主イエスもまた十字架に両手両足を釘打たれて苦しみの中にその肉体の苦しみの極限を味わって下さったのです。
 使徒信条は、これほどの苦しみを伴う十字架刑の生々しい姿について詳しく描写することをしません。十字架刑の前にむち打たれたこと、唾を吐きかけられたこと、茨の冠をかぶせられたこと、その他の数々の屈辱的な仕打ちについて、ドラマチックに描写してキリストの苦しみのリアリティーを表現しようとはしないのです。また同時にパウロ書簡で詳述されるような十字架の意味するところの罪の贖い、神との和解というキリスト教信仰にとっての最重要な事柄についても一切触れてはいません。そのような感情に訴える生々しい描写や、理性に訴える論理構築をすることなしに、ただひたすら淡々と主イエスの「十字架・死・葬り」という一連の事実のみを簡潔な言葉で言い表しています。しかし使徒信条が主イエスの三十数年の御生涯を「誕生と苦難」だけで表現したことを思えば、その御生涯のうちの日数にして最後の三日間だけにこれほどの重きを置いているとも言えるのであって、この淡々とした描写がかえって主イエスの十字架がその御生涯のまさしくクライマックスであったことを鮮やかに証ししているとも言えるのです。

(2)呪いの木としての十字架
 さて、主イエスの十字架刑は、ローマ帝国の文脈で言えばその刑罰としての由来と歴史を持っているのですが、しかし主イエスはそのようにして単なるその当時のローマ社会の極刑を甘んじて受けられただけではありません。むしろその本質においては、神の救いの歴史の成就として呪いの木である十字架の上に架けられて行かれたのでした。このことの消息を使徒パウロは冒頭のガラテヤ書の御言葉によって明らかにしています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです」。ここでパウロがキリストの十字架の意味を旧約の申命記から引用しながら論じつつ明らかにしているように、主イエス・キリストの十字架は、旧約聖書における罪人への裁きの規定との関連で理解されるべきものです。申命記21章には次のように記されます。「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」(申命21:22-23)。
 このように、十字架とは本来神の呪いの象徴であり、木に掛けられた主イエスは、罪なき神の御子であられるお方であるにも関わらず、忌まわしい犯罪人のようになって神の呪いをその身に受けて下さったのです。そしてそれによって主イエスは本来私の上にのしかかっていた罪の呪いを御自身のもとに引き受けて下さったのです。繰り返しガラテヤの御言葉を引用します。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出して下さいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです」。本来私たちの上に下るべき神の呪いはすべて主イエスの上に下され、主イエスが呪われた者となってくださった。そこで神の怒りと呪いは満たされ、なだめられ、もはや私たちにそののろいが下ることはないのです。本来私が担うべき神の呪いと受けるべき死の刑罰を、神の御子イエス・キリストが私の身代わりとなって受けて下さった。そして神の御前に呪われた者となってくださったのです。
 こうして私の罪はもはや主イエス・キリストの十字架の故にすでにその裁きを受けたものと見なされ、帳消しにされるのです。そればかりか今度は主イエス・キリストが進んで神の前に御自身を犠牲として差し出して下さったが故に獲得して下さった神の御前の義が、聖霊によって今度は私に転嫁されて、私が神の御前に義なる者と見なされるというのです。パウロはエペソ書でこのことを「新しい人という上着を着る」と表現しました。古い人の上に新しい人という上着を着せていただいて、神様はその上着のゆえに私を義なる者と認めて下さるというのです。これが主イエス・キリストの十字架の意味です。そのことをしっかりと見つめ、贖いの恵みを感謝とともに思い起こし続けつつ、使徒信条を告白したいと願います。 




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