使徒信条講解10
『聖霊によりて宿り』
                  
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」ルカ1章35節


(1)人としてのキリスト
今回から使徒信条第二項の後半部分に入ります。神学の世界においては一般的にイエス・キリストについての教えを取り扱う時には、これをイエス・キリストとはいかなるお方か、を論じる「人格論」と、イエス・キリストは何をなさったのかを論じる「御業論」に分けて考えるのですが、今日の箇所からはいわばそのイエス・キリストの御業に関する告白が続くところとなります。そしてその冒頭に来るのが「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」という、冒頭の御言葉にあったいわゆるキリストの処女降誕に関する告白です。
 その詳しい内容に入る前にまず私たちが確認しておきたいのは、キリストの聖霊による処女マリヤからの出生についての告白は、そのことが生殖学的に可能であるかどうか、それは如何にしてマリヤの身に起こったかが重要なのではなく、むしろ神のひとり子なるお方が人としてこの地上に来られたということの決定的な意味を告白するものであるということです。これまでにも度々触れてきたように、初代の教会にとっての最大の課題は人として生まれたイエス・キリストが神の御子であられるとの信仰をどこまでも貫くことにありました。イエスの神性を否定して人性だけを主張したり、逆に人性を否定して神性だけを主張することについては、これらを断固として退けなければなりませんでした。ですから使徒信条やニカイヤ・コンスタンティノポリス信条と並んで教会の大切な信条であるカルケドン信条は、イエス・キリストが神であり、人であられる唯一無比なるお方であられることを告白して、その神性と人性はイエス・キリストという固有な存在の中で「分割せず、分離せず、混合せず、変化しない」と言い表したのです。
 この神が人となられたという聖霊によって起こった一回きりの出来事の意味はどこにあるのでしょうか。英国の聖書学者クランフィールドは次のように説明します。「イエス・キリストが聖霊によりて宿ったという使徒信条の言葉は、神御自身が自ら来たり、歴史の一部となってくださることによって、神の創造の歴史に新しい始まりをもたらしたことを意味する。神御自身が新しく御子を生まれさせることによって、この特定の人間の生涯、すなわちイエスの生涯を始めさせた。従って、イエス・キリストは、私たち人間の歴史の延長線上に現れ出た救い主ではなく、歴史の外側から歴史の中に人となって介入した神なのである」。このように、聖霊による受胎は、そこにこの被造物世界と人間の歴史の中への神御自身による介入であるということができるのです。

(2)聖霊による受胎
 以上のことを端的に表現しているのがハイデルベルク信仰問答第35問です。「問:『主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ』とはどういう意味ですか。答:永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神でありまたあり続けるお方が、聖霊の働きによって、処女マリヤの肉と血とからまことの人間性をお取りになった、ということです」。ここで特に注目したいのは、永遠の神が聖霊の働きによってまことの人間性をおとりになったという点です。イエス・キリストが聖霊によってその身に帯びられたのは「真の人間性」であるとハイデルベルクは説き明かします。すなわちそれは神のかたちに創造された罪なき人間の姿、もっと言えば、神との永遠の交わりの中で栄光から栄光へと進むべき、人間の本来なるであろうはずであった理想の姿であると言えるでしょう。人となられたイエス・キリストの人間性とは、したがって私たちに与えられる神の約束における人間の姿、すなわち罪ある人間が聖霊によって主イエス・キリストによって救いの中に入れられ、神の子とされ、やがては来るべき新天新地においてその救いの完成を与えられる姿。罪の赦しを得て、本来の人間の姿に回復され、さらには栄光へと全うされるそのような終末論的な人間の姿であると言えるのです。ではそのような人間の姿とはいかなるものなのでしょうか。
 Iコリント15章42節には次のように記されています。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです」。ここにあるのは終末において完成される栄光のからだについての描写ですが、要するに、主イエス・キリストの場合は、栄光の神の子が聖霊によってこの地上に来たりたもうことによって真の人間性を獲得されたのですが、主イエスが再び来たり給うて完成させて下さる終末の神の国においては、今度は私たち、卑しい罪ある者である私たちが聖霊により、キリストの贖いによって神の子とされ、そこにおいては朽ちない者として、栄光ある者として、御霊に属するからだによみがえらされるのだというのです。そしてこの霊のからだこそが、主イエス・キリストがその受肉において聖霊によってその身に帯びられた「真の人間性」に他ならないのです。 
 そうであるならば私たちが主イエス・キリストによって救われるのは、私たちがこの主イエス・キリストにあって真の人間になるためであると言うことができるでしょう。これは大変重要なことです。主イエス・キリストを信じる時、私たちは古い自分に死に、生けるキリストに接ぎ木されて、新しい命に生きる者となるのですが、しかしそこに誕生する新しい人としての私は、今の私と別物の存在になるのではなく、むしろ真の意味での私として回復され、真の人間として生きるものとされるのだというのです。しかもその御国の到来の時には、真の姿に回復されるのは私たち人間だけにとどまるものではありません。私たちとともにこの地上の被造物世界の全体もまたその固有な本来の意味とその輝きを取り戻すはずなのであって、私たちはこの方向性をしっかりと踏まえておきたいと思うのです。主イエス・キリストの贖いによってもたらされる救いはそのような被造物世界の全体を包み込むものなのであって、そこにおいては地上の事柄が捨て去られるのではなく、むしろその本来の姿を回復させられるのです。そこにおいては、今この地上において俗な事柄と思われるものですら、実に価値あるものとしての輝きを取り戻すでしょう。真の人間性を私たちに与えるために、主イエス・キリストは聖霊によりて宿り、真の人間性を帯びてくださった。このことの深い意味を味わいつつ、この信仰を告白するものでありたいと願います。




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