使徒信条講解09
『我らの主』

「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」IIコリント4章5節


(1)神のひとり子、我らの主
 前回から使徒信条の第二項に入りました。前回は主イエス・キリストを「神のひとり子」と言い表しましたが、それに続いて今回の箇所では「我らの主」と言い表されています。「神のひとり子」が主イエスと父なる神との関係についての表現であったのに対して、今回取り上げる「我らの主」は、主イエスと私たちとの関係について言い表す表現であると言うことができるでしょう。
 「我らの主」。そもそもイエスを「主」と呼ぶことは、これまでも繰り返し申し上げてきたように、キリスト教信仰における信仰告白の出発点でありました。後に続くイエスの御業についての告白が「主は聖霊によりてやどり……」として、原文では代名詞の「彼」をその直前の「主」を受けるものとして訳して、その後の一連の主語に置いたことに現れるように、神のひとり子イエス・キリストに対する信仰告白において何よりも大切なのはこの御方が私たちにとって「主なるお方である」ということなのです。
 このように私たちとの関係でイエス・キリストを「主」と呼ぶ時、そこにはいくつかの重要な意味が込められていると言えるでしょう。まず一つには旧約聖書との連続ということです。旧約聖書は一貫してイスラエルの神を「ヤハウェ」すなわち「主」と呼びました。そこにはこの神がご自身の民イスラエルにとっての救いの神であられるという確かな確信が横たわっています。そしてこの「主」である神が今やご自身の愛する御子イエス・キリストを通して、しかもその御子の十字架と復活という贖いの御業を通して、さらにはその受難を経て天に挙げられた栄光の主イエス・キリストとして、私たちの救いを成し遂げて下さったのです。その消息に沿って言うならば、イエス・キリストは我らの主で「あった」のではなく、その贖いの御業を通して我らの主と「なった」のです。さらにこの点を前回の「神のひとり子」との結びつきで表現するならば、イエスは神の子に「なった」のではなく、神の子で「あった」のであり、キリストは我らの主で「あった」のではなく、我らの主と「なった」ということになるでしょう。
 二つ目のことは、この「主」という言葉の響きがその時代に対して持っていた挑戦的な意味ということです。初代教会が生きていた当時のローマ帝国支配下の世界にあっては、「主」という言葉は神格化されたローマ皇帝に対する呼び名でありました。しかしそのことに敢えて対抗するようにして当時のキリスト者たちは、ローマ皇帝ではなく、このイエス・キリストを「主」と呼んで憚らなかったのです。地上のあらゆる権威と力をその手にしていると言われた大ローマ帝国の皇帝に対して、十字架に死に、復活を経て救いを成し遂げられたイエス・キリストこそ、天と地のすべての権威を持っておられる真の主であると、この大胆な告白をもって福音を証ししたのでした。それはまさに冒頭の御言葉でパウロが語った確信といってよいでしょう。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです」。

(2)キリストのものとされる
さて、さらに注目したいのはイエス・キリストを「我らの主」と告白する時の「我らの」という言葉の持つ意味です。使徒信条を学び始めた時に、「我、信ず」という一人称単数の意味を考えました。その使徒信条が主イエス・キリストへの告白を語る際には「我らの主」と複数形で語っています。ここにはこの告白の持つ、公同的な性格がよく現れていると言えるでしょう。主イエス・キリストを信じるのはどこまでも「わたし」という個人がその出発点なのですが、そこで信じられる主イエス・キリスト御自身は、私だけのものではなく、どこまでも「我らの主」という共同性の中におられる。つまりそれは主イエス・キリストが教会の主であり全世界の主であることの表れです。さらにまたより大切なのは「我らの」の「の」の持つ意味です。神のひとり子が我らの主となられる。それはイエス・キリストが私の手の中にすっぽりとおさまってしまうのではなく、むしろ逆にイエス・キリストが我らの主として、私たち一人ひとりを御自身の中に招き入れて、ご自分の所有として下さっていることを意味しているのです。
 ハイデルベルク信仰問答の第一問は、このキリストのものとされていることの慰めを次のように語りました。「問:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答:わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。私たちが十字架と復活の御業を通してイエス・キリストのものとされた時、私たちは心から神のひとり子イエス・キリストを「我らの主」と呼びまつることができる者とされ、そればかりか、まさしくこの御方を私の人生の主として、与えられた生を生き、そしてやがてはその慰めと希望、約束の中にこの地上の生を終えていくことができる者とされているのです。この幸いを今一度深く噛みしめながら、我らの主よ、と思いも新たに告白させていただきたいと願います。




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