使徒信条講解08
『ひとり子なるイエス』

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ヨハネ1章18節


(1)キリストについての告白
 今回から使徒信条の第二項、主イエス・キリストについての告白の部分に進みます。これまで学んで来たように、使徒信条は父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神への告白という構造になっており、「我はそのひとり子、我らの主イエス・キリストを信ず」との告白は、この三位一体の神の第二位格(ペルソナ)としての御子として、つまり神存在のあり方の秩序に従って第二番目の項目に位置づけられています。けれどもこのことは、単にその存在の秩序に従ったことだけではありません。それと同時に、父なる神についての第一項の告白と後に続く聖霊なる神についての第三項の告白は、いずれもこの第二項の「我らの主イエス・キリスト」の光に照らされた時に初めてその本来の意味を明らかにするとも言えるのであって、それは三位一体の神の「存在の秩序」であるとともに、その神の「救いの御業の秩序」に沿ったものでもあるのです。すなわち、私たちが神を父なる方として、また聖霊を神の御霊として正しく知り、信じ、告白することができるのは、ただこの主イエス・キリストというお方を通してだけだといういうことなのです。
(2)イエスはキリスト
 そこで最初に「イエス・キリスト」という呼び名に注目しておきたいと思います。イエス・キリストという名は「イエス」が名で「キリスト」が姓ということではありません。むしろ「イエスはキリストである」という説明の言葉であると言ってもよいでしょう。「イエス」とは、人間の歴史の中に具体的に生きられた人としての名前ですが、元来は「主は救い」という意味のヘブライ語「ヨシュア」のギリシャ語読みです。福音書の中でしばしば人々が用いる「ナザレのイエス」は、ですからそれこそありふれた一般的な呼び名でありました。そして「キリスト」という呼び名。これは、主イエスが何者であるかを示す称号のようなものですが、元来は旧約聖書以来「油注がれた者」として待望されていた救い主「メシヤ」を意味する言葉です。つまりこの「イエス・キリスト」というお名前には、あのナザレの大工の息子としてこの地上に人として生まれ、人としての喜びや悲しみを味わいつつ生きて下さったお方が、旧約以来預言されてきた神の救いのご計画の成就としての神の子、救い主メシヤであるという、すでにそれで一つの信仰告白といって良いほどの意味が込められている名なのです。
 教会の歴史の中で、しかしこのイエスを神のひとり子キリストと信じることを巡っては大変な論争が繰り返されてきました。教会の教えの歴史の中で最初にして最大の論争は、イエスの神性すなわちイエスが神であるということを巡っての論争だったのです。そもそもが福音書の中では主イエスが御自身を指して「キリスト」と名乗ることは比較的希でした。むしろ使徒たちの時代になってからイエスをキリストと呼ぶことが教会の中で広がっていったと考えられます。そこから、ある人々はイエス御自身は自分でも自覚していたように、実はただの人間に過ぎず、後の時代になってこの人間イエスを神として奉るようになったに過ぎないという理解が生まれてきたのです。

(2)神のひとり子
 しかし聖書の教えの全体に聞きながらその正統的な信仰を確立していった教会は、正しくもこのイエスを神のひとり子、救い主キリストとして告白することをもって自らの信仰の確信としたのです。例えば使徒信条とともに教会の歴史の中で言い表されてきた代表的な信条の一つであるニカイア・コンスタンティノポリス信条は次のように言っています。「主は神の御ひとり子、よろず世に先立って生まれ、御父より生まれ、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と同質にして、万物は主によって成れり」。この信条は、それこそイエスの神であることを否定する異端的な教えとの対決の中で生まれてきたもので、御子が御父と同一の本質をもつとして「同質」(ホモウーシオス)という用語を取り入れた画期的な信条でした。しかしこれらの告白を待つまでもなく、ヨハネ福音書の御言葉が「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と語っているように、この神の御子、ひとり子なるお方を通して私たちは父なる神を見つめることができるのであり、「わたしを通してでなければ誰一人父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)とあるように、ひとり子なるイエス・キリストを通してのみ、私たちは父なる神のもとに来ることができると聖書ははっきりと教えています。ですから、主イエス・キリストを信ずと告白する所に、主イエス・キリストの父なる神についての告白と、主イエス・キリストの御霊なる聖霊の神についての告白への道筋が開かれていくのであって、この第二項の告白に、私どもの信仰の中核があるとさえ言ってよいほどのことなのです。
 もしそうでなければ、もしあのナザレの大工の息子として馬小屋に生まれ、私たちの罪を贖うためにポンテオ・ピラトのもとで十字架に付けられ、死んで葬られ、三日目によみがえられ、天に昇られ、全能の父の右に今座しておられるお方が神のひとり子でないならば、私どもの救いはあっという間に崩れ去り、私どもはどこを捜しても罪からの救いはなく、我が身に神の怒りと裁きを招くばかりの者でしかないでしょう。しかしそのイエス・キリストが神のひとり子であられるがゆえに、父なる神の愛はこのイエス・キリストを十字架に付けるという仕方で表され、そのキリストを死者の中からよみがえらせるという仕方で、勝利の中に全うされたのです。つまりこの「神のひとり子」との告白にこの私の救いの確かさがかかっているのあって、その確かさの前にはいかなる「もし」も入り込む余地はないのです。




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