使徒信条講解04
『信ずべき神』                               

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」Iヨハネ4章16節


(1)神亡き時代の中で
 前回私たちは、使徒信条の「われ信ず」の一句から、「信じる」ということについて学びました。そこでは神を信じることを「知ること、認めること、信頼すること」としてとらえたわけです。使徒信条はその全体の構成が「父、子、聖霊」の三位一体の神への告白から成っていますが、この三位一体の神を信じる信仰、すなわち「神“を”信ず」、「アイ ビリーブ イン ゴッド」(I Believe in God)の「イン」、「クレドー イン デウム」(credo in Deum)の「イン」。この日本語の「を」にあたる「イン」(in)の持つ意味が重要であろうかと思います。そこにおいて、私たちの「神を信じる」という営みが、どのような在り方であるかが浮き彫りにされてくるのです。
 私たちが神を信じるという時、いったいそこではどのようなことが言い表されているのでしょうか。またそもそもそこで言う「神」とはいかなる存在なのでしょうか。またそもそも神は私たちにとって認識されうるような存在なのでしょうか。かつて中世の神学の世界においては、神の存在を証明することが教会の大きな使命の一つでありました。いかにして神の存在を論証するかに、中世のカトリック・スコラの神学者たちは大変なエネルギーを注いで、そこに精緻な議論を積み上げていったのです。しかし18世紀のいわゆる啓蒙主義以降の近代世界においては、もはや生ける神の存在をかつてのような万物の存在の前提としては信じることができなくなってしまいました。かつてドイツの哲学者カントは人間の理性によっては神は知り得ない存在であるとし、人間の実践理性の要請に基づいて考え得る最も完全な道徳的規範をもって神であるとしましたし、ニーチェは神の死を語ってはばかることをしませんでした。現代においても例えばパウル・ティリッヒという神学者は、現代の人間は聖書の神についてすら、もはや「神」という呼び名を持つことができず、それにかわって「究極的実在」と呼ぶことを提唱したほどでした。このような不可知論的な時代の中で人間はもはや信仰の対象としての神を持つことができず、それを自らの手によって捨て去ってしまったのでした。ところが20世紀末になって近代の思想の行き詰まりを感じてきた時代、啓蒙以降の「ポストモダン」とい呼ばれる今日の時代は、そのようにして神を葬り去って突き進んできた人間理性万能の在り方が限界に行き着いてしまったことを痛感し、その反動として東洋的な神秘主義やニューエイジムーブメントに代表されるような汎神論的な精神主義の中に迷い込んでいるのです。オウム真理教や最近クローン人間誕生のニュースで世間を騒がせているラエリアンムーブメントなどは、このような思想の流れの行き着く先の典型とも言えるでしょう。

(2)生ける神を信ず
 このような時代の中で、そしてこのような世界に向かって、私たちが「神を信じる」と告白する時、それは「神の存在を認識する」とか「神の存在を証明する」ということを語っているのではありません。むしろここでの「を」は前回見たように、生ける神への認識と承認に基づいた人格的な「信頼」の態度が表明されているのです。私たちは人間の道徳の要請としての「神概念」を信じているのではなく、また名前を持たない「究極的関心」を信じているのでもなく、自由と主権のもとにこの世界を創造し、地の基を定め、その創造された世界に対する愛に基づいて救いのご計画を立て、一つの民を起こして契約を結び、その民の歩みの中で私たちの救いの計画を推し進め、やがて時至って御一人子を送り、その十字架と復活によって民の贖いを成し遂げ、聖霊を送って教会を建て、教会を通しての福音の宣教によってその救いを一人一人にもたらし、やがてこの世界を御自身のもとに再び集め給うお方としての「生ける神」を信じているのです。この神は世界のはじめには創造において働き、歴史の進展においては摂理の中に働き給うお方であって、その生ける御手は今も私たちとともにあります。それゆえに私たちもその存在と御業に信頼しつつ、この生ける神を信頼す、との告白を口にすることができるのです。

(3)信ずべき神
 そもそも信ずべき神を認識することは、究極的には愛によってのみ成り立つことです。神が私を愛してくださるので、私はその愛の中で神を知り、また信じることができるのです。ヨハネの手紙が「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です」と語る時、それは神を認識の対象とし、神の愛を観察の対象として語っているのではなく、まさにこの私がこの神の愛によって愛されているというその愛の中からの言葉として語っているのです。それゆえに「愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」という愛の認識に基づく交わりが成立するのです。
 私たちが信じる神様、それは世界のはじめから今も私たちを支え給う創造と摂理の神、愛をもって私たちに御自身を明らかにし給う愛の神、今も私たちと交わりを持ち給う生ける神、私たちとの間の救いの約束を堅く保ち、それを最後まで全うしてくださる契約の神なのです。この神を信じる。この神を信頼し、この神に従って生きる。神を見失った時代の中で、神を信じると告白し続けて生きる。このことをもって私たちの存在そのものが一つの信仰告白となっていくのです。
 かつてフランスの偉大な哲学者、数学者、神学者であったパスカルは自身の回心の時の体験を記した紙片を自分の服の裏に縫い付けていました。そこには次のように記されていました。神を信じるということの一つの証がここにはあります。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や学者の神ではない。確かだ、確かだ。心のふれあい、喜び、平和、イエス・キリストの神。私の神、またあなたがたの神。あなたの神は私の神です。この世も、何もかも忘れてしまう。神のほかには。……正しい父よ。この世はあなたを知っていません。しかし、私はあなたを知りました。喜び、喜び、喜びの涙」。




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