使徒信条講解02
『「我」と「我ら」』                               

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、……このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。……私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」Iヨハネ1章1−4節


(1)我らの信仰
 いにしえの教会は使徒信条のことをしばしば「クレドー」と呼び慣わしていました。「クレドー」(credo)とは「私は信じます」という意味の一人称単数の動詞ですが、使徒信条がこの一句から始められていることにちなんで、このように呼ばれるようになっていきました。
 そこでまず私たちが最初に立ち止まって考えておきたいのは、「クレドー」すなわち「我は信ず」という、この一人称の「単数」の持つ意味についてです。前回の学びの中で、信仰告白とは私たちが代々の教会とともに、また世界の教会とともに言い表すものであると学びました。そうであるならば信条の言葉もまた本来的には「我は信ず」という単数ではなく、「我らは信ず」という一人称の「複数」で語られるべきものではないか、ということです。事実、使徒信条に続く古代教会の信条や、その後の教会が生み出して来た信仰告白文書の多くが、その冒頭に「クレディムス」(私たちは信じます)、あるいは「クレディムス エト コンフィテムル」(私たちは信じ、そして告白します)と、複数形の言葉を用いているのです。
 このことの持つ意味の大切さは、信仰がともすると個人主義化に陥りやすい私達にとってとりわけ強調されるべきものと言えるでしょう。私たちはただ一人で主を信じているのではなく、主の教会の交わりの中で信じているのであり、また私たちはただ一人で主を告白しているのではなく、主のからだなる教会として告白しているのであり、私たちはただ一人で主への賛美を歌うのではなく、礼拝の交わりの中でともに歌い交わしているのだからです。
 そしてより本質的には、私たちの信仰が私の内面から生み出された一人語りの信仰ではなく、そもそもが私の外からもたらされた主イエス・キリストの福音に基づく信仰であるという事実があります。それゆえに私たちは孤立して信仰を告白するのではなく、その本来の意味において信仰の創始者であり完成者であられる主イエス・キリストとともに、この信仰を告白しているのであって、それゆえに「我らは信ず」と言うことができし、また言わなければならないのです。冒頭のヨハネの手紙が繰り返し「交わり」ということについて語る意図も、まさにこの信仰の「公同性」を指している点にあると言えるでしょう。

(2)われ信ず
 しかしながら、以上の点を踏まえた上でなお、使徒信条が「われ信ず」と語ることの意味深さをも思うものです。 
ヨハネが「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、……それをあなたがたに伝えた」という時、そこで問題となっているのは主イエス・キリストとその救いの御業をいかにして知るか、という信仰の認識ですが、この認識はあくまでも「私」個人を出発点にしたものでなければなりません。こと信仰の認識と言うことにあっては「私」は「私たち」に先んじなければならない。この順序が大切です。「私」がまずあって、そこにはじめて「私たち」のある場所が定まるのです。
信仰の告白においても同様です。「私たち」の捧げる告白の中に、「私」の告白が埋没し、解消してしまってはならないのです。信仰の告白とはあくまでも、教会の交わりの中に生きているこの「私」が信じているのであり、「私」が告白しているのであり、「私」が歌っているのであって、誰かの代わりに告白したり、されたりということはあり得ないし、誰かの声に隠れてということはあり得ません。どこまでも、そこでの告白の主体は「私」にあると言うことの大切さを覚えたいのです。
このことは教会の交わりを越え出たこの世界のただ中に生きる信仰者の在り方を考えるならばより切実です。この世界の中で、誰も信じなくても私は信じる。誰も告白しなくても私は告白する。誰も歌わなくても私は歌う、という決断のもとに、信仰の事柄を誰でもないこの私がとことん引き受け、それを担うという気構えをこの一人称単数の中にしっかりと受け取っておきたいと思うのです。
このように、信仰の告白という事態には、絶えずその本来的な意味における信仰の個別化があります。信仰の個別化ということは、そもそもが主イエス・キリストに対する信仰の本質に属することでもありました。主イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。使徒たちも「この方以外に救いはない」と語りました。この唯一まことの救い主を告白する私達もまた、ある意味で「私は信ずる」と一人で告白しなければならないのです。「御父および御子イエス・キリストとの交わり」があるところに初めて「私達の交わり」も産まれるのであり、一人ひとりが自分のパートを自分の声でしっかりと歌いきる時に、はじめて全体は一つの調和したハーモニーを奏でることができるのです。
 そのような信仰を私達も責任を持って主体的に私のこの口をもって言い表すものでありたいと心から願うものです




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