秋の修養会朝拝   2019/09/15
『私の喜び、冠よ』

ピリピ4:1-3

 秋の修養会の主日を迎えました。かつては礼拝の後、松原湖や奥多摩に会場を移して一泊で行っていましたが、ここ数年は教会で過ごすプログラムを行っています。今日も午後から夕方にかけて皆さんとともに、主にある豊かな養いと交わりの時を過ごしたいと願っています。まずはこの礼拝を通して主を見上げ、ともに御言葉の恵みにあずかってまいりましょう。皆さんに主の祝福があるようお祈りいたします。

(1)教会に生きる喜び
 今年の修養会のテーマは「教会に生きる喜び」です。昨年12月に教文館から本を出していただいて以来、多くの方々が手にしてくださっていることを感謝しています。これまで出版してものは、憲法や政治に関わるもの、震災に関するもの、そして信仰告白文書に関するものがほとんどでしたので、ようやく牧師らしい書物が出せたことを特に感謝しています。
 それ以来、「教会に生きる喜び」を主題に、教会の修養会や研修会に招かれてお話しする機会が多くありました。その中で経験したことの一つをお分かちします。ある教派の三つの教会が合同で開いた修養会で、二回の講演をし、その後、いくつものグループに分かれて分かち合いの時間が持たれました。講師は自由に加わって良いとのことでしたので、皆さんがどのように講演を聴いてくださったかを知るのによいチャンスと思い、いくつかのグループに少しずつ顔を出してみました。そこで分かったのはどのグループでも講師の話の感想などはまったく触れられず、むしろ皆さんがそれぞれ経験してきたご自分の「教会に生きる喜び」を、文字通り喜々としながらお話しされていたことでした。この本に記した私自身の教会に生きる喜びが呼び水になって、皆さんそれぞれの喜びの経験が引き出されていったのです。これは私にとって大きな喜びでした。他の集会でもこれと同じような経験をすることがあり、その中で、これはなんといっても自分たちの教会でこそ経験しなくてはと思ったのです。それで今日の午後には、幾人かの方にこの本を読んでの「わたしの教会に生きる喜び」を分かち合っていただき、その後は皆さんでその喜びを広げ、深めていきたいと願っています。
 このようなプログラムを午後に控えたこの朝、礼拝において聴こうとしているのは、ピリピ書4章の御言葉です。ピリピ書はかつて朝の礼拝でともに読んだ御言葉ですが、調べてみますとちょうど今から10年前、2009年9月13日の礼拝で、今日の4章1節から3節から説教していました。ピリピ人への手紙というのは、「喜びの手紙」と言われるように、全編にわたって「喜べ」、「喜べ」と繰り返される手紙です。しかもこの手紙は「獄中書簡」と言われ。パウロが福音のために捕らえられていた獄囚から書き送られたものです。とても喜んでなどいられないような境遇の中から、それでも「あなたたがたは喜べ」、「私も喜ぶ」と語るパウロの言葉に、福音が生み出す本当の喜びがあるのだということを教えられる書物でもあるのです。
 教会の50周年誌の論考にも記したことですが、10年前にこの「喜びの手紙」を説き明かしていた時、私自身は喜びとはほど遠く、毎週毎週深い悩みともがきの中におりました。赴任して10年のころ、自分自身の説教についてのある課題を示されて、それをどう克服したらよいのか、毎週の礼拝説教で試行錯誤を繰り返すも、どれひとつうまくいった感じがせずに、非常に苦しいときを過ごしていたのです。ですからその時は、ピリピ書をまったく喜びながら読むことができず、いつかもう一度取り組み直したいと思うほどでした。それからもう10年経ってみて、今なお毎週の説教は産みの苦しみの連続ですが、しかしそれでも許されてこうして毎週説教壇に立ち、神さまの福音の言葉を取り次がせていただいている。そして共にその御言葉に生きることのできる教会の交わりがあることを心から喜びとし、感謝しているのです。

(2)私の喜び、冠よ
 パウロは3章の終わりで、「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られることを、私たちは待ち望んでいます」と復活の希望を語り、それを受けて1節で次のように言います。「ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち」。天を仰ぎ、地に足を着けて歩む。これを繰り返しながら進んで行く歩み。それが信仰者の人生であり、地上の教会の道筋です。主にある未来を見つめることで今の自分の立っている足下がいっそう確かに踏み固められ、自分の立っている今の地点から未来を仰ぎ見ることで、そこから確かな足取りで歩み始めていくことができる。ここに地上にありながら、すでに天に国籍を持つ者として歩む神の民の実にダイナミックな生き様が現れてくるのであって、パウロの語る御言葉は私たち地上で苦闘する者たちが、その現実に取り込まれて未来を見つめる視点を失うことがないように、また未来に対して単に淡い幻想を抱くことで地上の歩みに身が入らずに無責任な生き方に陥ることがないために、絶えず私たちの目線を上へと向けさせ、また自らの足下を見つめさせるようにと勧め、励ましてくれるのです。
 このような励ましをピリピの兄弟姉妹たちに伝えるにあたって、パウロは人一倍の愛の心をもって語りかけます。「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」。1章8節でも「私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です」と語っていましたが、そのパウロのピリピ教会を慕う思いは、「生きることはキリスト、死ぬことも益」と語ったパウロが、その中でなお生きながらえることを主に願った思いと結びつきます。彼がなお地上にとどまることを求めたのは、それをもってピリピ教会のために何らかの益となる奉仕がしたいと思う、彼の切なる願いによるものであったのです。
 もちろんピリピ教会が人間的に見て感謝なことばかり、喜べることばかりの理想的な教会であったというわけではありません。実際には牧会者パウロの心を悩ませる問題、痛みを伴う問題があり、共に生きる兄弟姉妹たちの間にも、難しさを感じること、痛みを伴うことがあったことがこの手紙の中からもうかがい知れます。けれども、そんな現実があったとしてもなお、失われることなく、損なわれることのない喜び、朽ちることなく、取り去られることのない喜びがそこには確かにある。牧会者パウロの眼差しには、目に見える地上の教会としての姿だけでなく、それらを通して天に国籍を持つ神の民の姿が見えていたのでした。
 
(3)主にあって堅く立ってください
このようにピリピ教会の兄弟姉妹たちを愛し、慕い、喜び、冠とさえ呼んだパウロが、この群れに対して願ったこと、それは「主にあって堅く立つ」ということでした。信仰の馳せ場を終わりまで走り抜いていくためには、御言葉に堅く立ち、確かな足取りで一歩一歩と足を前に運んでいくことが大切です。それはまことに地道な歩みですが、私たちは一足飛びに生きることはできません。日ごとの信仰の営み、祈りと御言葉の積み重ね、礼拝の生活の積み重ねによってしか、主にあって堅く立ち、歩むことは為し得ないことなのです。パウロがピリピ教会を「私の喜び、冠」と呼ぶのは、たとえそこに様々な問題があったとしても、主にあって堅く立つなら、教会は進んでいけるという確信があったからです。いろいろな欠けがあり、弱さがあるとしても御言葉に聞く下地があるならば、そこから教会の再生、刷新の兆しが始められていく。そうやって一人一人の兄弟姉妹たちを御言葉によって励まし、立たせ、養っていくことがパウロ自身の神の御前での奉仕であり、彼の生きがいであったのです。
 この時のパウロの心境と相通じる思いを彼自身が述べている言葉があります。Iテサロニケ3章8節の御言葉です。「あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです」。ここには教会に生きる喜びの中心に重なるものがあらわれています。

(4)あらためて「私の喜び、冠よ」
 最後にあらためてもう一度、「私の喜び、冠よ」との御言葉を味わっておきたいと思います。新約聖書の中で「冠」という言葉は、大きく二種類あります。一つは王がかぶる力の象徴としての冠、それはしばしば宝石が鏤められたまことに豪華な王冠であったと言われます。今一つはオリンピア競技の勝利者などに与えられた勝利の栄冠で、それはしばしば月桂樹で編まれ、色とりどりの花で装われていたと言われます。
 パウロがピリピ教会を「私の喜び、冠」と呼んだ時はいったいどうだったのでしょうか。人間的なものを一切誇りとしないパウロ。その彼が喜び、冠と呼ぶピリピ教会は、決して地上で完成した教会ではありませんでした。確かに教会の中には信徒同士の反目があり、分裂の兆しがあり、律法主義の揺さぶりや完全主義の過ちもあった。ですからパウロが「喜び、冠」としたのは肉の誇り、人間的な誇りにおける教会ではない。むしろ様々な欠けや弱さ、滲みや皺や様々な傷と汚れを身に帯びつつも、しかし天の御国の完成を目指して進む途上の教会、旅人の教会です。宝石をちりばめた冠を誇らしげにかぶることができるようなものではありえない。しかしながらそれでいて、それでもなおパウロをして「喜び、冠」と呼ばしめられるのは一体なぜなのか。それはひとえにこの群れが「主にあって」立つ教会であるからであり、キリストの血をもって贖い取られた一人一人のかけがえない存在によって立つ神の教会であるからであり、そしてやがて再びキリストがおいでになる終わりの時に、花婿なるキリストの傍らに立つことが許され、キリストにある完成を迎えることが約束されているからにほかなりません。そしてその時には地上の長い長い信仰の馳せ場を終わりまで走り抜いた者たちに与えられる月桂樹の冠、宝を鏤めた王冠以上に輝きを増す勝利の栄冠が与えられる。この栄冠を先取りしてパウロは今、教会を見つめて「私の喜び、冠」と確信をもって語っているのです。それはもはやパウロ個人の眼差しではありません。それはキリストにあって教会の交わりを見つめるときに私たち一人一人にも与えられる眼差しであり、何よりも教会のかしらなる主イエス・キリストご自身が見ていてくださる眼差しです。
 来年、私たちの群れは宣教55周年の記念の年を迎えます。ここまで主が教会を導いてくださり、順境の時も、逆境の時も、御言葉によって養い続けてくださったことを感謝します。またいよいよ新会堂建築がスタートしようとしており、来年の秋には新しい会堂をお献げすることになるでしょう。しかしそのような時にこそ、私たちはへりくだって主の御前にひれ伏し、主の御前にこのような欠けだらけの私たちが勝利の冠を頂くものとして見つめられていることを感謝したいと思うのです。主が私たちにかぶらせてくださる冠、その光栄をありがたく、本当にもったいなく思います。それは私たちの内にある某かのものゆえではなく、ご自身の十字架の血潮をもって買い取ってくださったという尊い御子イエス・キリストの犠牲のゆえに与えられた価値であり光栄です。この光栄を身に帯びた私たち一人一人として、御言葉によって日々新たにされながら、主にあってしっかりと立ち、確かな足取りで、栄光の冠を文字通り頂く日を目指して、ここからまた新たに一歩を踏み出してまいりたいと願います。
 「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか」。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.