秋の修養会主日礼拝   2018/09/16
『土の器の中に』

二コリント4:5-10

 2019年の秋の修養会を迎えました。昨年から礼拝後に一泊で出かけていくことをやめて、今日は教会で、明日は大泉の公園で、主にある豊かでの交わりの一日を過ごしたいと願っています。この交わりの中に主がともにいてくださることを願い、主の祝福が皆さんお一人ひとりの上に豊かにありますようと祈ります。
 
(1)使徒の務め
 この年、私たちの教会は「あわれみの器として生きる教会」という主題のもとに1年を過ごしています。9月を迎え、後半の歩みに向かうにあたり、あらためて今年の主題を思い巡らしつつ、「器」ということでパウロが語る、もう一つの大切な御言葉を心に留めたいと思います。それがこの朝開かれているコリント人への手紙二4章の御言葉です。パウロはこの手紙の中で、自分自身がキリスト・イエスの使徒であるということを繰り返し強調するのですが、その際の語り口の三つのことに心を留めたいと思います。5節、6節をお読みします。「私たちは自分自身を宣ベ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです」。
 一つ目は、パウロが自らの務めを語るにあたって、「私」と言わず「私たち」と言っていることです。ここには、パウロが自らの務めを彼個人のものとしてではなく、どこまでも「私たち」すなわち教会の務めとして受け取っていることが現れています。二つ目は、「自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えている」と言っていることです。ここには、パウロが自らの為す福音宣教の務めを、それをもって自分の何事かの業績、成果が示されることや、それを通して自分が知られること、評価されることの手段として考えることせず、むしろ「主なるキリストが宣べ伝えられること」こそが大事なことだと受け取っていることが現れています。そして三つ目は「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべ」だと言っていることです。ローマ書の冒頭でも学んだように、パウロは自らを一貫して「キリストのしもべ」と受けとめている。しかも、このキリストのゆえに目の前にいるあなたがたに仕えるしもべだと言っているのです。
 これらの語り口の中に一貫しているのは、パウロが一方では自らがキリストの使徒であると事実に対する揺るぎない確信、強烈な自負を持っていること、その一方ではしかしそれは自分自身を何ら大きくしたり、優れたものにしたり、勝ったものにするものではないという認識です。むしろパウロの語り方はそれとは全く正反対の方向に向かう。それが続く7節です。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」。
(2)土の器の中に
 パウロがここで自らを「土の器」とするのは、決して単なる比喩や謙遜の表現ではありませんでした。実際、二コリント6章や11章を読んでいくと、人間パウロが福音宣教の生涯においてどれほどに苦難を味わい、困窮の中に身を置き、弱さと貧しさを生きたかが伝わってきます。しかもこうして弱く小さくされたパウロに対して、敵対者たちからはこんな容赦の無い言葉も投げかけられていました。10章10節。「『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない』と言う人たちがいるからです」。
 しかし大切なことはそこにあるのではない。肝心なことは、この土の器の中にある「宝」、すなわちイエス・キリストの福音です。この宝なるキリストの福音の持つ「測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるため」に、弱く脆い土の器が用いられる。そこに私たちが生かされてあること、教会が建てられてあることの尊く、重く、そして決定的な意味合いがあるのです。
 この御言葉を読む時に、いつも思い起こす一つの経験があります。私が神学校二年生、19歳の時のことです。一年間、奉仕神学生として同盟教団の町田南キリスト教会にお世話になりました。当時、町田の教会は今は天に召された鈴木邦俊先生が家族挙げて開拓伝道に励んでおられた時期で、いつも先生のそば近くで開拓伝道の苦労の一端を学ばせていただいた貴重な一年でした。毎週の様に手作りのチラシを作っては配りに行くのですが、それとともに当時先生がなさっていた古紙交換のお供をすることがありました。小さな軽のバンに乗って、当時高級住宅地であった田園都市線沿線の住宅地を良く回りました。大きなお屋敷の前で呼び止められて新聞紙を引き取り、代わりにトイレットペーパーと一緒に鈴木先生が教会のトラクトを手渡すのです。そこには「本当の幸せはここに」などといった短い伝道メッセージが書いてあるのですが、正直なところ、私はこれに同行するのが苦手でした。今となっては恥ずかしいことですが、当時まだ19歳の私には、大きなお屋敷の奥さんに「本当の幸せはここ」とトラクトを手渡す先生の姿を「どっちが幸せと見えるだろうか」などと考えてしまっていたのです。しかしそんなちっぽけな私の思いを打ち崩すように、先生はいつも生き生きと伝道し、アルバイトをし、開拓伝道に励んでおられました。まさに土の器の中に入れた宝の輝きを誇りとし、その輝きを人々に届けようと、文字通り一生懸命に励んでおられたのです。
 私にとって、この一年の経験はその後の歩みにおいて決定的な意味を持ちました。どうしても器のことばかり、その見てくればかりを気にしてしまい、器の貧しさに落ち込んだり、表面的な格好ばかりを気にしたりする自分自身が、少しずつ少しずつ変えられて行くことを実感していったのです。大切なのは、器の中にある宝です。私たちもこのことをしっかりと心に刻みたいと思います。今、私たちの教会は新会堂建築に取り組んでいます。今日の午後も修養会の中で大事な懇談会が開かれます。主のために、福音の宣教のために、よい会堂をお献げしたいと願って祈りつつ励みながらようやくここまで辿り着いて来ました。
 しかし敢えて言えば、教会堂は「土の器」に過ぎません。精一杯のものをおささげしたとしても、それはやがて朽ちていくものです。大切なのはその器の中にある宝、キリストの福音そのものです。福音が鮮明にされなければならない。福音が語られなければならない。まさに福音が福音として、良き知らせとして告げ知らされていくために、それがよく鳴り響く器とならせていただきたいと願うのです。

(3)宝なるキリストの福音の響きを
 そこで今朝、土の器なる私たちに託されている宝、キリストの福音とはいかなるものかを確認しておきたいと思います。
 最近、二冊の本を夢中になって読みました。一冊は先週の週報「牧師室だより」でも紹介した旧約学者の左近豊先生が書かれた『エレミヤ書を読もう 悲嘆からいのちへ』、もう一冊が福嶋揚という組織神学者が書かれた『カール・バルト 未来学としての神学』という本です。この二冊に心惹かれたのには二つの理由があります。一つはそれぞれの著者がどちらも私と同年齢であったということ。そしてもう一つは、どちらの本も福音の持つ希望が明確に語られているということでした。預言者エレミヤの生きた時代、祖国南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚という苦難の只中にあって、悲嘆からいのちへ、闇から光へ、滅びから救いへの希望がエレミヤを通して語られる。まさにそれは神の恵みの福音です。
 またヒトラー政権の悪魔的な力が猛威を振るったドイツにあって、天からの神の恵みをひたすらに語った一人のスイス人神学者。彼が見つめたのは、この世界とそこにあるいのちに全面的な肯定を与える神の恵みの福音、そのあらわれであるキリストの圧倒的なリアリティーでした。この本の中で著者の福嶋先生がバルトの次の様な言葉を紹介します。
 「『あなたは生きなければならない!』ではなく、『あなたは生きていてよい!』これは人間が他人にも自分にも語ることができず、神自らが語ったこと、そして今も繰り返し語ることなのである。・・・あなたは生きなくてはいけないのでは全くない。あなたは生きていてよいのである!いのちはまさに神から贈られた自由である。生きようと欲することは、この許された者が欲すること、この自由の中で欲することである。この自由の中では、人間はまさしく主権者などではなく、まさしく孤独でもない。神を創造者、いのちの与え手かつ主として、絶えずいかなる状況においても仰ぎ見ているのだ」。
 そしてこの言葉についてこう記しておられます。「いのちを脅かし冒?するあらゆる妨害や誘惑を貫きとおす『生きていてよい』という根本的な許可、許し(赦し)のメッセージを聴いて『そのとおりだ』と受け入れることができる時、人は自らを『生きるに値しない』と断罪して犠牲にすることから解放され始めるでしょう。自己肯定を回復する者は、他者の存在を肯定し、他者とのつながりを回復して、全く新しく生き始めるでしょう。このように見てくると、福音が絵空事ではなく、人間を変革する根本的な力を持つことが見えて来ます」。
 どんな苦難の中にあっても、どんな暗やみの中にあっても、どんな試練の中にあっても、どんな嵐の中にあっても、そして崖っぷちに追い詰められるようなことがあっても、それでもなお「あなたは生きていてよい」と語りかける神がおられる。その声を聴いた者たちが、その声に生かされた者たちが、その声を反復し、増幅し、鳴り響かせる。それが土の器としての教会の大切な役割なのだと思うのです。

(4)キリストのいのちに生かされる
 これはパウロ自身が経験していることでした。8節から10節。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです」。
 何度も繰り返し味わいたい御言葉です。どれほど絶望的な状況にあろうとも、もうだめだ、ということがない。主イエスのいのちを身に宿す私たちの存在、教会の存在が一つの希望の役割を果たすのです。確かに四方八方から苦しめられる。途方に暮れる。迫害される。倒される。いつでも主イエスの死を身に帯びる。そういう現実があることを聖書は語ります。実際に私たちが生きていくこれからの時代は、ますますそのような困難さを増すでしょう。
 しかしそのような現実を覆す、真の現実、神の国の現実に私たちは生きる。生かされる。土の器に過ぎない私たちが、それでもなお窮することなく、行き詰まることなく、見捨てられることなく、滅びることなく、したたかに、しなやかに、どんな困難の中にも、ユーモアを忘れず、自由を持って生きることができる。そのような存在であることが、大きな希望の役割だと思うのです。皆さん一人一人が、土の器、あわれみの器として、キリストのいのちに生かされ、キリストの福音の輝きを映し出す尊い存在であることをこの朝覚えましょう。そして私たち徳丸町キリスト教会が、土の器、あわれみの器として、ここに救いがあり、ここに慰めがあり、ここに助けがあり、ここに励ましある。ここに愛があり、ここに喜びがあり、ここに自由があり、ここに希望がある。この恵みの事実を表すためにこの地に召されていることを覚えて、宝なるキリストの福音をあらわすものとならせていただきましょう。

 



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