秋の修養会主日礼拝       2017/09/17
『あなたがたはわたしの友です』

ヨハネ福音書15:11-17

 台風が近づく中での秋の修養会を迎えました。「修養会」、「リトリート」、日常から少し退いて、御言葉に養われ、神さまとの交わり、神さまにある交わりを楽しむ時ですが、今年は例年にように礼拝後に一泊で出かけていくことをやめて、教会での交わりの一日を過ごしたいと願っています。
 そこでまずこの朝、皆さんとともに、いつもと装いを変えた新しい賛美を中心とした礼拝をおささげし、午後からは楽しい親睦と御言葉を学び合う時間を持つ予定です。このような交わりの中に主がともにいてくださることを願い、主の祝福が皆さんお一人ひとりの上に豊かにありますようと祈ります。
 
(1)喜びに満たされて生きる
 この年、私たちの教会は「新しい戒めに生きる」という主題のもとに、ヨハネ福音書13章34節の御言葉を掲げて歩んでいます。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この御言葉に関わるヨハネ福音書の主イエスの御言葉を、この朝あらためて味わっておきたいと思います。
 この9月でこの教会での奉仕をスタートして18年目に入りました。2000年の9月に着任して以来、主のあわれみと愛する皆さんの祈りとお支えによって、何とか牧師としての奉仕を続けて来られていることを感謝いたします。これまで18年、一つの場所にいた経験というのは、生まれてから高校卒業までを過ごした土浦ですから、ここでの生活はそれ以上になるのだなと思うと、少々感慨深いものがあります。この群れに遣わされた当初から、繰り返し語り続けてきた一つの確信があります。それは主イエス・キリストを信じて生きる世界は、自由と喜びの世界であるということです。喜びというテーマは、私たちの信仰の営みにおいてとても重要なものです。喜びのない信仰はつらいものです。しかししばしば私たちは喜びを失いやすい。主イエスを喜び、主イエスにあって自分自身を喜び、隣人を喜ぶ。そう頭では分かっていても、実際には喜びが失われ、息苦しさの中に生きてしまうことがあるのです。
 50周年記念誌にも書いたことですが、私自身も毎週御言葉を取り次ぎ続ける中で、喜びを失いかけた経験がありました。皮肉なことですが、ちょうど「喜びの手紙」と呼ばれるピリピ書の講解説教をしていた時期です。自分の説教についてあることをきっかけに悩み始め、どんどん深みにはまり、毎週毎週、喜びの福音を語りながら、自分は喜びを失っていくという、今にして思うと大変つらい時期であったことを思い出します。毎週あれこれと試行錯誤を繰り返しながら、いっこうに出口が見えない。そんな日々でした。
 そんなトンネルをようやく抜け出ることが出来たのは、実はピリピ書に続いてヨハネ福音書の説教に取り組んだことがきっかけでした。ヨハネ福音書を説きながら、自分自身の中に神さまの愛が迫ってきて、愛されている喜びを深く味わうようになっていきました。そして説教についても一つの決心がついたのでした。それは神さまの愛を語れば良いのだという、当たり前のようなことでした。しかしその決心がついたことで、新しい喜びのもとに御言葉を語り続けて今日に至ることができています。
 11節で主イエスは言われます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」。主イエスはここで「わたしの喜び」と言われます。これとの関連で覚えたいのが、少し前の14章27節です。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」。この「平安」を「喜び」に置き換えてもよいのでしょう。主イエスが私たちのうちに満たしてくださる喜び、それは、世が与えるむなしい喜びでなく、主イエスご自身が「わたしの喜び」だと言って差し出してくださるものです。そのような喜びに生きることができるいのちを、主イエスが私たちに与えてくださっている。この事実をあらためて確かめ、感謝して受け取りたいと思うのです。

(2)一番の愛で愛されて生きる
 主イエスがくださる喜びに生きるとき、私たちの生き方に根本的な変化が起こると御言葉は教えます。新しい価値観、新しい基準によって生きる者へと変えられて行くのです。その新しい生き方について、主イエスは繰り返しこう語っておられます。12節。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」。また17節。「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」。お気づきのように、これらは13章34節で語られたことの繰り返しです。ていたことです。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
 互いに愛し合いなさいと主は言われます。それが新しい戒めだとも言われる。しかし私たちはこの戒めを前にしてたじろぐのです。互いに愛し合うことが決して容易いことでないことを自分自身がよく知っているからです。身近な家族、夫婦や親子、兄弟、親しい友、あるいは主にある兄弟姉妹たちの間でさえ、互いに愛し合うことは難しいものです。そこには絶えず自己中心が顔を出してきますし、自分の益のために他者を利用しようとするような打算が入り込んでくるのです。もし私たちが自らのうちにある愛によって生きようとするならば、そこにはあっという間に限界がやって来るでしょう。
 しかし主イエスは言われます。13節。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」。ここで言われていることは、決して一般的なこと、抽象的なことではありません。人類一般のこと、この世の習わしのこと、理想の人間像のことが語られているのではない。誰かが自分の大切な友のためにいのちを捨てるという自己犠牲的な友愛の精神のことが扱われているのでもない。もし仮に私が自分の大切な友人のためにいのちを差し出したとしても、それがこの御言葉の実現だということにはならないのです。ここではただひとりの人のことだけが言われています。「これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われるように、その愛を示してくださったのはただお一人の方、イエス・キリストだけです。私は人を完全に愛することができない。その愛で互いに愛し合うこともできない。けれども主イエスはその私、そのあなたを「友」と呼び、これよりも大きな愛はだれも持っていないというほどの完全無比な愛、他とは比べものにならない一番の愛をもって、十字架にご自分のいのちを捨てるという仕方で現された愛をもって、私を、あなたを愛してくださいました。この一番の愛が、この一番の愛だけが、私たちを新しくし、私たちを喜びに満たされて生きる生へと、一番の愛で愛されて生きる生へと、そして互いに愛し合い、仕え合う生へと私たちを生かすのです。

(3)あなたがたはわたしの友です 
 さらに主イエスは言われます。14節、15節。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」。
 夏休みが終わり、先週から水曜日の「まるっこ」が再開しました。33名の子どもたちが集ってくれました。また昨日のCSサマースペシャルには、55名の子どもたちが来てくれました。この一年、地域の子どもたちと毎週のように触れ合うようになって、子どもたちを取り巻く環境のある種の過酷さ、人間関係、友だち関係の複雑さなどを様々に考えさせられています。そして自分を尊ぶこと、他者を尊ぶこと、愛することやいたわること、本当の友だちのあり方などを教会学校でも家庭でも、きちんと子どもたちと向き合って語り合うことの大切さを思わされています。
 主イエスは「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われます。ここでの「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら」とは、互いに愛し合うようにという新しい戒めを指しています。さらにここで「命じること」と訳される言葉は、任せるとか、委ねるという意味を含んだもので、有無を言わせぬ一方的で強制的な命令ではなく、相手への信頼をこめた委任のことです。つまり主イエスはここで私たちに、ご自分のいのちを捨てるほどの愛をもって示された愛に基づき、その愛であなたがたは互いに愛し合うようにと求められ、その愛をもって私たちに生きてほしいとその愛を委ねられ、そしてその愛に生きる私たちを「あなたがたはわたしの友である」と呼んでくださるのです。
 主イエスの友として生きる生き方は、私のほうから主イエスに近付いていって、主イエスのお気に入りになって、そうやって主イエスの友となるというのでなく、16節に「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」とあるように、それは主イエスからの招きです。友と呼ばれる資格も信頼も勝ち得ないはずの私たちに、イエスさまが近づいて来て、私たちの友となってくださった。それはまことに光栄なことです。主イエスによって愛されて、主イエスの友とされて生きる。それが私たちに与えられている祝福なのです。
 主イエスは私たちの友となってくださったお方、私たちを選び、私たちを招き、私たちを友としてくださったお方です。私たちもそのようにして遣わされていく人々の傍らに立ち、その人の友となって生きる者となりたい。本当の友は人を自分のために利用しない人、自分の損得勘定で選り好みをしない人です。むしろ人から求められたことに、出来る出来ないはひとまず脇に置いて、出来る限りのことをしてみる人のことです。一人で出来なければまた他の友を呼んで助けてもらいながら、なんとかその友のために力を尽くす人です。あの主イエスのもとに中風で寝たきりの人を床のまま運んできて、何とか主イエスに出会わせてあげたいと願って屋根にまで上り、主イエスのもとに連れてきたあの友人たちのように、一番の愛で愛された主イエスの愛に押し出され、その愛によって作り替えられて、私たちも主イエスにある友として、その愛を証しして生きる新しい人生を、ここからスタートしてまいりたいと願います。

 



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