2016年度春の一日修養会「キリスト者の苦難 Uコリント4章7−12節を通して」 2016/04/24 
「土の器の中に」

コリント人への手紙第二4章7-9節

 4月の最終週、新しい年度が始まり、早くも1ヶ月が経ちました。お一人お一人の歩みに主が伴ってくださったことを覚えて、感謝したいと思います。私自身も伝道師としての歩みが始まり、実習神学生の頃は見ることのなかった平日の教会の歩みの中に加えられ、日々みなさんお一人お一人を覚えて祈りつつ仕える幸いとともに、このように説教者としてみことばを取り次ぐことへの緊張感を感じている次第です。
 合わせて、先々週の木曜日以来、繰り返し起きている大きな地震のために、大きな悲しみと痛み、喪失感をもってこの日を迎えられている方々がいることも、覚えさせられます。お一人お一人の痛みや傷に癒し主なる主が触れてくださるように、また、必要な支援が行き届いていくように祈りつつ、そして、そのような中にあって今朝もそれぞれの場で祈り、礼拝をささげている現地の教会のことを覚えつつ、みことばに聴きたいと思います。

(1)「キリスト者の苦難」というテーマについて
 今朝は、特に春の一日修養会ということで、「キリスト者の苦難」というテーマで朝の礼拝と午後の集会を通して、Uコリント4:7-12に聴きたいと思っています。このテーマと聖書箇所は、私が修士論文で取り組んだものです。そのため、私自身が、この「キリスト者の苦難」というテーマについて聖書から学びたいと思った経緯をお話するところから始めたいと思います。
 そのきっかけは、学部時代に与えられたある牧師先生との出会いでした。その先生は安藤肇先生という87歳の先生でした。安藤先生は、戦後初めて日本の教会の戦争における罪を問うた『深き淵より』という本を書かれた方です。戦争中の反省から戦後、積極的に市民的自由を守るための運動と平和のための運動をされてきた。その先生の著作に触れ、先生のご自宅で何度も話を伺う機会に恵まれました。その中で知ったのは、安藤先生の牧師としての歩みの根底には、先生自身が戦時中に戦争協力と天皇崇拝の罪を犯したことへの深く悔い改めていたということです。神学生時代に徴兵された安藤先生は、配属先の部隊の上官から「天皇とキリストのどちらが偉いと思うか」と問われ、迫害を恐れるあまり「天皇です」と答えたそうです。それは、その時の緊迫した状況を思えば仕方がなかったと思えることでした。しかし、戦後、平和な時代を迎えた時に「あの時信仰を告白できなかった」という体験は、明確な神への背信として先生の心に刻まれました。そして、先生と同じ挫折が日本の教会全体の歩みに陰を落としているということにも気づいていったといいます。
 そんな安藤先生が、戦中の教会が天皇崇拝の罪に陥った理由の一つとしてあげるのが「宗教的愛に関する誤解」です。それは、キリスト者にとって真の愛とはどのようなものかという問題でした。戦中の牧師たちの間には、戦争協力も天皇崇拝も教会員の安全を守るためには仕方ないことだったという意見がありました。それは、ある意味で教会員への愛から出た行為だったと言えます。しかし、安藤先生は、その愛は、人間的愛であり、神を信じる者の真の愛ではなかったと言います。安藤先生自身の言葉を読みたいと思います。

「教団の指導者のなかには最初から、十数万のキリスト者はとうてい迫害に耐えられないもの、したがって自分たちが守護していかなければならないものと決めてかかっていた傾向があった。それは信徒への愛ではなく、むしろ不信頼であったといえよう。戦時中の私たちは、人間味豊かな指導者を持ってはいたが、神の前に立つ時の決断を教えてくれる指導者をもっていなかった。私はキリストのために殉ずる、君も殉じたまえ、といえるだけの愛と信頼とが当時の教会のなかに失われていたのではないだろうか。他人に迷惑をかけることのみを恐れ、また他人からの迷惑のかかることを恐れて、真理への愛がなおざりにされてしまったのではなかったろうか。」

 この罪の世にあって私たちには、キリストを信じ、キリストを救い主として告白するからこそ、通らなければならない苦難があり、そこにおいては死すらも選ばなければならない時がある。そして、牧師には、神を愛し、教会員を愛し、信頼するが故に、ともに神への愛を貫き苦しみを通ろうと語る責任がある。そのことを教えられたとき、私自身、身震いがする思いでした。自分は、本当にそのような厳しくもまっすぐな愛をもって神と兄弟姉妹を愛せるだろうか。そして、苦難を通ろうとも、死が待っていようとも、ともにみことばが語るようにキリストに従おうと言えるだろうか。そう問われる中で、私自身も、「キリストに従うがゆえの苦難」について、みことばからしっかりと受け取る必要を覚えさせられました。

 私が安藤先生との出会いから問われたことは、「苦難」という大きなテーマの極一部のことだと思います。苦難と一口に言っても、その内実は、実に多様で、複雑で、重たいものです。今回の地震を見ても、このテーマの中にある、言葉では表わし切れない重みや複雑さを実感させられます。そういう意味では、今朝開かれている箇所も、そのような苦難の多様性のすべてに答えるものにはならないかもしれない。しかし、そうであったとしても、今朝の箇所が、私たちがキリスト者として苦難の中に立ち続けるために大きな励ましと力を与えてくれる箇所であることは、間違いありません。ともに、その力を受けつつ、いま、備えられている苦難や戦いの中に立たせていただく者とされたいと思います。

(2)宝を持つ土の器
 キリストの使徒パウロは、第二コリント書を記した時、コリント教会との間に大きな課題を抱えていました。それは、コリント教会に入り込んだ人々によって彼の使徒としての権威が攻撃されていたということです。その批判の内容は、パウロの説教の語り口が弱々しいこと、体に病を抱えていることといった個人的な弱さへの批判、そして、その弱さ故に宣教地でたくさんの迫害にさらされているという批判だった。それらの批判は、最終的にパウロが語った福音の内容さえ歪めていくことになってしまいました。パウロは、単なる個人的な名誉挽回のためではなく、コリント教会の人々がきちんと神の前に歩めるように、これらの批判に弁明しなければなりませんでした。
 そういう中で、彼が自らの弱さや、彼が経験している苦難について語ったのが、今朝の箇所です。
4:7「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
 パウロは、ここで自らを「宝」を入れた「土の器」だと語ります。「土の器」とは、当時の社会で最も安く、最も普及していた器です。それは、あまりにも脆く、簡単に粉々になってしまうため、旧約聖書を見ると、弱く脆い存在を表現するのによく引き合いに出されています。そのため、重要なことには用いられず、見た目もみすぼらしく、すぐ使い捨てられるような存在でもあったと言います。
 「あいつは、弱々しくてみすぼらしくて教会のリーダーになど、ふさわしくない」と責められていたはずのパウロが、自らを「土の器」と語るのは驚くべきことです。本来なら自分はこんなにも価値のある存在だ、こういう強みを持っていると自分を大きく見せようとしてもよいはずです。しかし、彼は、はっきりと自らの弱さを認めるのです。実際、自分は弱くて、みすぼらしい存在だというのは、パウロの素直な実感だったのではないかと思います。それだけ、彼は、自信やプライドを打ち砕かれる経験をたくさんしていた。1:8には、彼がアジヤで経験した苦難について語る部分があります。そこで彼はこう言います。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。」この「耐えられないほどの圧迫を受け」と訳されている部分は、もう少し細かく訳すと、「私たちの力を遥かに超える圧迫を受け」と訳すことができます。彼は、そこで自分の力の無さを、嫌という程、思い知らされ、死さえも覚悟しなければならない、まさに最悪の状況に立たされました。
 皆さんの中にも、自分の力量を遥かに超えた状況に立たされたことのある方がいらっしゃると思います。強がることも、自分を大きく見せることも、何の意味も持たない、絶望的な状態。私たちは、そういう場に立たされた時、誰のせいで、何のせいでこうなったのかと原因探しをし、その原因に対してやり場のない怒りを燃やします。その原因が自分にあり、怒りの対象が自分に向く時には、それは大きな後悔として心を支配するでしょう。そして、やり場のない不安に苛まれてしまう。苦難は、そうやって私たちの汚い部分や愚かな部分、弱い部分を露にしていきます。

(3)「キリストを知る知識」という宝
 しかし、聖書は、そのような苦難に圧倒され、弱さがさらけ出される時に、なお、絶望することはないのだと語ります。自らを「土の器」と語るパウロは、その弱さを認めつつも、自分を卑下している訳ではありません。むしろ、そんな弱さを持つ自らのうちに、大いなる「宝」があるのだと言っている。この宝とは、直前の4:6で語られた「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」を指しています。キリストと出会い、このお方を知るということは、何物にも変え難い「宝」なのだとパウロは語るのです。
 パウロの人生を根本的に変えたのは、彼がまだキリスト者を迫害する熱心なパリサイ人だった頃、逃げたキリスト者を捕らえにいったダマスコ途上で光の中で復活のイエス様と出会ったことでした。その出会いを通して、彼はイエス様こそが主キリストであることを知り、このお方の十字架と復活に込められた神の大きな計画を知りました。それは、キリストに敵対する者であった彼さえも赦し、受け入れ、新しく生かしてくださる神の大きな愛の証しでした。そして、そのイエス様との関係は、御霊を通して、いつも彼とともにいて彼を生かし続けるキリストのいのちを実感する体験によって深められていきました。その愛の関係こそが、自分の力を遥かに超える苦難の中で、自分の弱さに絶望してもおかしくない、その状況の中で、彼を立たせる力となったのです。7節後半には、このように記されます。「それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」ここで、「この測り知れない力」といわれる言葉は、先ほど見た1:8の「私たちの力を遥かに超える圧迫」という言葉と同じ「遥かに超えた」という言葉が使われています。つまり、苦難がどれほど、パウロの力を超えるものであったとしても、彼のうちで彼を生かす神の力は、その苦難をも遥かに超えていくと言っているのです。
 その苦難の中で、神の力がどのように彼を生かしているのかを語るのが、8-9節です。
 4:8-9「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
 「〜ですが、〇〇ではありません」という説明は、やはりパウロ自身の弱さを認めるものです。四方八方から苦しめられ、途方にくれ、迫害され、倒される苦難の経験は、まぎれもない事実でした。しかし、同時にその事実に目を留めて失望するのではなく、もう一方の事実にこそ目を向けるように促されます。パウロは、窮することがなく、行き詰まることもなく、見捨てられることもなく、滅びることもないのです。それらは、私たちの目には最悪の結果を免れただけの、大した違いのないものにしか見えません。しかし、その違いは、神にしか生み出せない大きな違いなのです。
 特に9節に語られている2組の逆説に注目したいと思います。一組目の「迫害されていますが、見捨てられることはありません」の「見捨てられません」という言葉は、神様がイスラエルに対して何度も約束された言葉です。つまり、ここで彼を見捨てないのは神です。その意味で、この逆説は2つの関係性を表わしています。パウロは人との関係の中では、迫害を経験し、見捨てられることもあります。しかし、こと神との関係においては彼が見捨てられることは決してないのです。それは、最後の組である「倒されますが、滅びません」という逆説でも同じです。人々は彼を打ち倒し、最後には殺すかもしれない。しかし、たとい人に肉体的に殺されようとも、神が彼の魂を滅ぼすことは決してない。その事実は、まさに彼が出会った復活のイエス・キリストに証しされた確かな希望でした。だからこそ、彼は苦難の中で弱さをさらけ出しつつも、神のために仕え続けることができたのです。

 パウロは、彼を批判する人々に対して、私は弱い存在だということを認め、その一方で、そんな自分にキリストが出会ってくださり、神の力が働いているという事実に目を向けるように促しています。それは、苦難の中に置かれ、自分の弱さに目を留めて、怒りや後悔、不安に苛まれている私たちに神が語っておられる言葉でもあります。あなたは今、どうしようもない苦難の中で、あなたのうちにある宝を見落とし、あなたを支えている神の力を見落としているのではないかと語りかけておられる。弱く、脆く、みすぼらしい存在であるあなたを愛し、十字架で死なれたキリストとの出会い、そこで知った神の愛は、今も変わらず注がれている。誰があなたを見捨て、誰があなたを倒そうと、わたしは決してあなたを見捨てず、一人にはせず、決して滅ぼすことがない。わたしがあなたとともにいる。自らの弱さを認め、しかし、絶望することのないように、苦難の中で語られる、その声にしっかりと耳を傾けたいと思います。

(4)宝にある力が明らかにされるために
 最後にもう一つ、大切なことを確認して終わりたいと思います。それは、ここで語られる宝は、隠されるために土の器の中にあるのではないということです。7節の後半で語られるように弱い私たちがキリストの宝をいただいているのは、弱い私たちを通して「測り知れない神の力」が明らかにされるためです。そして、この明らかにされるとは、私たちを通して、そのキリストを知る知識の宝を、測り知れない神の力を知る人たちが起こされていくということを語っているのです。
 「土の器」という賛美があります。「土の器、欠けだらけの私、その欠けからあなたの光がこぼれ輝く。土の器、ヒビだらけの私、そのヒビからあなたの愛が溢れ、流れる。」ここで歌われているイメージは、そのことをよく表わしていると思います。私たちの欠けから神の光がこぼれ出る、その先には、私たちのヒビから神の愛が溢れ出る、その先には、私たちの愛する家族、友人、子どもたちがいるのです。弱く、無価値な「土の器」である私たちが、神に先に選ばれたのは、その人たちへと、この光と愛を届けるためなのです。
 確かに、その欠けやヒビを晒して生きることは、私たちにとって痛みにもなり、恥になることもあるでしょう。美しい賛美の中では忘れてしまうこともありますが、弱さを晒して生きることは困難を引き受けて生きることでもあります。しかし、もし、私たちが自分の弱さを隠し、そこに働いてくださっている神の力を、まるで自分の力のように振る舞うなら、その人たちにはキリストの光も、神の愛も届くことはない。いや、むしろ、キリストも、神も、信じようが信じまいが変わらないと伝えることになるかもしれない。土の器である自らの弱さを認め、苦難の中で本当に苦しみ、惨めにさえ見える体験をしても、なおキリストに示されている神の愛と希望によって生かされていく。その生き方を通して、私たちのうちにある宝を差し出す歩みをしたいと思います。その弱さを認めて生きる生き方は、結局のところ、自分で自分を強い人、価値のある人のように見せない、本当に正直で自由な生き方です。私たちの日々の歩みが、そのような苦難の中にある神の愛と光を差し出す歩みとなることを祈りたいと思います。



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